2018年6月3日(日) 神様がいるから生きられる
おはようございます。高知県にある山田教会の牧師、高内信嗣と申します。
私が奉仕をしています山田教会の庭は、役員の方がいつも整備してくださるので、とても美しいです。そして植えられた木には実がなり、池には金魚が楽しそうに泳いでいます。私が餌をあげるために池に行きますと、それに気付いた金魚たちが私の下へ元気良く集まってきます。パクパクと口を開け、とてもかわいいです。金魚たちの親の気分で、私はいつも餌をあげています。そのように日々、美しい庭と金魚たちに私は癒されています。
しかし、その美しさを壊そうとするものがいます。それは鳥です。庭を彩る木の実を食べあらし、わたしの大事にしていた金魚を食べてしまいます。
ある日、1週間出かけていたのですが、帰ってきたら金魚が大半、食べられていました。その時のショックは言葉に表せません。
ある方にそのショックをお話ししましたところ、こう言われました。「まあ、鳥も生きているからね。鳥も必死だからね。」
大事な金魚が食べられてしまい、鳥に対して敵意しかありませんでしたが、少し視点が変わりました。そうか、鳥も生きているんだ。生きるために食べているんだ。必死に生きているんだ。
今朝の聖書の言葉(マタイ6:25-26)の中で、イエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と語られました。私たちは食べる、飲むといった生きるための消費生活というものがあります。時に生きるために必死になることが多くあります。糧が無ければ私たちは生きていくことができません。
しかし、イエス様はそのようなことで頭がいっぱいになることが「思い悩み」だと言います。生きて行くために思い悩む必要はない。イエス様は語るのです。果たしてそんなことは可能なのでしょうか。
イエス様は、人間に取り巻く「思い悩み」の解決方法を示してくださっています。それは「空の鳥をよく見なさい」ということです。そう、私の大事にしている金魚を食い荒らす空の鳥です。イエス様はこう語っています。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
天の父、つまり神様は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」つまり、労働さえもしない鳥ですら養って下さっていると、イエス様は仰います。少し複雑な気分です。私のその複雑な気持ちはわきに置いておきます。綺麗な庭を荒らしている鳥は、実は神様に養われている。神様は空の鳥に、いつも糧を与え、生かし続けているのです。
私が大事にしている金魚、教会を美しくする木の実を神様は用いてまでも、鳥を養っているのです。
そしてイエス様は最後に大きな慰めの言葉を語っています。「あなたは鳥より価値あるものではないか」
私が大切にしているかわいい金魚を用いてまで、神様は鳥を養っているならば、私たちが養われていないわけがないのです。
イエス様は今朝の箇所で「命」と言っています。この命とは単に私たちが生存する命というものではありません。この命とは「魂」ということもできる、人間存在のすべてを表した言葉なのです。その大きさ、素晴らしさは私たちが求める食物だけで、守られるものではありません。背後にある神様の目に見えない配慮と計らいがあるからこそ、生きていられるのです。鳥たちが、神様によって金魚を与えられ、生きられるように、わたしたちも神様によって支えられているからこそ、生活することが出来ている。神様がいるから生きられるのです。
是非、今、放送を聞いているみなさん。みなさんの背後にある神様の導きに目を向けてみませんか。きっと神様の大きな温かみが感じられるでしょう。