2018年5月27日(日) 聖霊の結ぶ実
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書には聖霊が結ぶ実として、九つのことが挙げられています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の九つです。ガラテヤの信徒への手紙5章22節以下にそう記されています。どの一つをとっても、人間として生きる上でとても大切な事柄です。
しかし、ここに挙げられているような九つのことがらは、聖霊など意識しなくても、身についているという人はいるかもしれません。確かに、慈愛に富んだ人は、どんな宗教の中にもいます。世界の平和を願う国連機関で働く人が、皆クリスチャンであるとは限りません。親切な人なら、どんな町にも一人はいます。節制というならスポーツ選手の節制ほど徹底したものはありません。そうであるなら、なぜ聖書は、ここに挙げられている九つのことがら、愛も喜びも平和も寛容も、親切も善意も誠実も柔和も節制も、全部が聖霊の結ぶ実であると語っているのでしょうか。
二つのことが考えられます。まず一つのことは、聖書の神を信じていようがいまいが、聖霊の一般的な働きによって、この世の中が罪の悲惨のどん底に陥っていかないように支えられているということです。どんなにすさんだ社会になっていっても、必ず愛を説く者たちがあらわれたり、貧困にあえいでいても、親切心や善意で行動をとる人たちがいたり、権力者たちが武力で世界を支配しようと、自分を正当化しようとしても、それは本当の平和には何の役にも立たないと、恐れずに発言する者たちが現れます。このこと自体が、世界に対する神の憐みを表しています。
しかし、聖書が特別に語っている「聖霊の結ぶ実」とは、それらのこととは違います。それが二つ目のことです。ここで言われていることは、キリストを信じてキリストの僕とされた者たちにだけ与えられる聖霊の実です。
確かに、客観的に区別がつくほど、クリスチャンとそうでない人との間に、明らかな違いがあるわけではありません。あえて言えば、自覚の違いがあるということだけです。ただ、はっきり言えることは、聖書が、九つの事柄を挙げて、聖霊の結ぶ実であると記しているのは、あの人とこの人を比べて、どっちが聖霊に導かれているかを示すために、このようなことを書いているわけではないということです。
比べられているのは、この人とあの人ではなく、自分の過去と現在、現在と未来の姿です。罪人であった自分が生み出してきたものと、今、キリストと結ばれて完成されつつある自分が生み出すものとが比べられているのです。それでも、自分の進歩のなさに絶望的になることの方が多いかもしれません。そうであるからこそ、聖書は聖霊の結ぶ実について述べた後、二つの大切なことを語っています。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)
聖霊が結ばせてくださる九つの実なのですから、聖霊の働きに身をゆだねていく謙虚さが求められています。
もう一つの大切な事柄は「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」ということです。 これら九つの実は、他人と比較して自慢すべきことでもなければ、他人と比較して劣等感を抱くことでもないのです。ただ、聖霊に謙虚に従うときに、これらの実が備えられるのです。