2018年5月13日(日) 語る言葉を与えてくださる聖霊
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
取り越し苦労という言葉がありますが、人間ほど取り越し苦労をする動物はありません。それもそのはず、人間には将来を予測する知恵があるからです。予測するとは言っても、可能性を予測するのが精一杯です。絶対にといえるほど確実なことは、人間には言えないのですから、取り越し苦労からなかなか解放されることはありません。
あるとき、イエス・キリストは弟子たちに向かってこんなことをおっしゃいました。
「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカ12:11-12)
やがて訪れる迫害の時に、弟子たちは、権力者たちの前で自分たちの信仰について弁明することが求められます。このことは、キリストの直接の弟子たちが直面する問題ばかりではありません。どの時代のクリスチャンにとっても事の大小はあれ、反対者たちから自分の信仰についての弁明を求められる機会があるものです。そのことを思うと気が重くなってしまいます。実際、反対する家族やキリスト教に対して偏見を抱いている人たちに、どう答えたらよいのか自信がないので、キリスト教に入信するのをためらうという人もいるくらいです。
けれども、イエス・キリストはおっしゃいました。
「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
これは、自分が信じていることについて、何の知識も必要ないという意味ではありません。十分すぎるくらいの準備をしたとしても、それでも取り越し苦労をしてしまうのが人間です。そういう、わたしたちが抱えている問題を見越して、それ以上の心配をしないようにと励ましてくださっているのです。それはただの気休めの励ましではありません。そうではなく、そのとき聖霊が働いてくださるという確かな希望があるからです。人間は能力以上の備えをすることはできません。しかし、聖霊は必要な言葉を適切に語らせてくださいます。そうであれば、余計な心配で信仰の心を萎えさすことは愚かしいことです。
キリスト教会の歴史を記している使徒言行録を読んでいると、弟子たちは実に堂々と弁明しています。キリストが十字架にかけられるときに、逃げ出してしまった弟子たちとは思えないくらいの雄弁さです。
このことは初代の教会の時だけの話ではありません。日本でも迫害を受けたキリシタンたちが、堂々と信仰を弁明しています。キリスト教徒は非国民だと揶揄された先の大戦の時代にも、自分たちの信じている信仰を恐れず言い表した人たちがいました。
語るべき言葉を授けてくださる聖霊の働きは、今もなお続いています。もし、取り越し苦労のために、信仰を持つことをためらっておられる方がいらっしゃるのでしたら、ぜひ、聖霊の力に自分自身を委ねてみてください。語る機会を与えられた時には、語る適切な言葉も、それを語る勇気も、すべて聖霊が与えてくださいます。聖霊の恵みに謙虚に信頼して歩むときにこそ、豊かな信仰生活を送ることができるのです。