2018年4月15日(日) 赤ん坊による平安?

 おはようございます!高知県安芸市にあります、芸陽教会の大宮季三です。
 さて、皆様は今日、何か不安に感じていることはありますでしょうか?あるいは、今日から始まる一週間の中で不安に感じておられることはありますでしょうか?
 仕事のこと、学校のこと、家族のこと、人間関係のこと、お金のこと、恋愛のこと、健康のことなど、私たちはよく不安な気持ちになります。むしろ、「不安を感じない日を過ごすことの方が少ない」、という方のほうが多いかもしれません。一つの不安が過ぎ去っても次の不安がやってきます。私たちはいつも、多くの不安を抱えながら過ごしています。

 さて、聖書の中にシメオンという人が出てきます。この人は赤ん坊を抱っこして「私は安らかにこの地上を去ることができます。」と言いました。彼は、人生を長く過ごし非常に多くのことを経験してきた人であっただろうと考えられます。多くの苦しみ、多くの痛み、多くの悲しみを見てきたでしょう。しかし、彼は不安ではなく全くの安心、平安を得て、この地上での生涯を終えようとしていました。彼が抱っこした赤ん坊とは、救い主イエス・キリストでした。イエス・キリストによって平安を得た人物、それがシメオンという人物です。聖書は「救い主イエス・キリストによって、本当の平安が与えられる」と語ります。

 なぜシメオンは、イエス・キリストを抱っこして、平安を得ることができたのでしょうか? シメオンは、イエス・キリストを見て「救いを見た。」と言いました。つまり、イエス・キリストを見ることは「救い」を見る、ということです。人はイエス・キリストによる救いを見たときに、本当の平安を得ることができます。

 イエス・キリストによる救い、とは一体何でしょうか?
 イエス・キリストは、約2000年前に十字架という道具によって処刑されました。しかし、その死は何か悪いことをしたために与えられた罰ではありませんでした。聖書はむしろ、イエス・キリストは何も悪いことをしていないのに処刑された、と語ります。一体それはどういうことでしょうか?

 聖書は、罰を受けなければならないのは、全ての罪人であると語ります。そして全ての人間が罪人である、と語ります。つまり、罪人であるあなたのためにイエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。人間の罪は、人間を「死」という滅びへと向かわせます。「死」という問題こそが、私たちの不安の根元にある問題ではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストが十字架でその罪を背負ってくださったので、私たちは自分の罪を全てイエス・キリストに委ねることができます。その結果、私たちの前から滅びがなくなります。

 「イエス・キリストを信じるものには、神と共にに永遠に生きる命を与えられる。」これが聖書の約束です。イエス・キリストは十字架にかかられ死なれました。しかし、死に打ち勝たれて復活なさいました。私たちもイエス・キリストによって、死に打ち勝つことができます。
 イエス・キリストは、復活をされた後に天に昇って行かれました。そして、イエス・キリストはイエス・キリストを信じる全ての人々のために、「住まいを備える」と約束して下さいました。このイエス・キリストの救いによって、私たちは本当の平安を得ることができます。

 シメオンは、何か特別な知識があるから、「救い」を見ることができたのではありません。シメオンは「神の霊」によって、「救い」を見ることができたのです。「神の霊の働き」は何か超能力的なものではなく、また、伝説的な昔話でもありません。
 神の霊は今も働いておられます。そして、神の霊は教会の礼拝において、大いに働いてくださいます。今日、教会の礼拝でイエス・キリストに出会いに行ってください。神の霊によって、あなたもイエス・キリストによる救いを見ることができます。