2018年3月11日(日) 人生の勝利者とは

 おはようございます。松山教会の久保浩文です。
 今年も3月を迎えました。4月からは新しい年度で、入学や就職、異動が決まっておられる方もあることでしょう。新しい進路が自分の期待通りという方もいれば、残念なことに自分の期待通りではなかったと思っておられる方も、あるいはいるかもしれません。私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、人生の様々な場面で、人の評価と競争にさらされます。人生の勝利者とは、どのような人のことでしょうか。社会的な地位やたくさんの財産を得ること、また、有名になることでしょうか。

 新約聖書にパウロという人が出てきます。新約聖書の中の書簡(手紙)と呼ばれているものの大部分は、パウロによると言われています。しかし、パウロは、はじめはクリスチャン、キリスト教徒ではありませんでした。彼は、ユダヤ教の中でも特に厳格なことで知られるファリサイ派というグループに属していました。しかも彼は、由緒あるユダヤ人の家柄に生まれ育ち、当時としては最高の律法学者であったガマリエルという人のもとで学んだのです。彼は当時の誰もが羨むような経歴と学歴の持ち主であり、将来が嘱望された人でした。

 しかし、その彼に人生の転機が訪れます。パウロは、キリスト教徒たちを捕えようと意気揚々とダマスコという町に向かって旅をしている途中、突如、天からの強い光に照らされたかと思うと、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。この声の主こそ、彼が迫害してきた復活の主イエス・キリストでした。

 当時の多くの人々にとって、十字架にかけられたキリストなど愚かであり、到底信じるに値しないものでした。しかし、キリストの十字架は、私たち人間の多くの罪の身代わりとして、神の呪いを引き受けられたものでした。ですから神は、十字架に挙げられ、死んで3日目に復活されたイエス・キリストをただ信じることで、私たち人間の全ての罪を赦し、神の前に義と認められるのです。

 これまでパウロは、律法をすべて完全に守り行えば、自らの力、努力で救いを得ることができると信じ、努めてきました。キリスト教徒を迫害してきたのも、その間違った熱心によるものでした。パウロは、復活の主イエス・キリストとの決定的な出会いによって、価値観、人生観が180度変わりました。これまで彼にとって有利であると思って大切にしてきたユダヤ人としての様々な特権が、色あせた、つまらないものとなったのです。

 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3:7〜9)

 イエス・キリストは、この地上の全ての物の「主」であられ、私たちの人生のすべてをかけて信じて、人生を献げて生きるだけの価値のある御方です。私たちにとって「救い」の恵みは、この地上の競争や努力によって得られるものではありません。また、様々な立場、地位によって得られるのでもありません。すべての人が、キリストを信じさえすれば、人生の勝利者となることができるのです。