2018年2月25日(日) 共に生きる(4)老いと死
おはようございます。広島教会の牧師、申です。
今、広島教会には年老いた方が沢山おられます。自分がその立場になったことがないので、「年老いて生きるというのはどんなことなのかな。」と良く思うことがあります。間違いなく、死を意識しながら生きることでしょう。しかし、死は必ずしも年老いた人にだけ来るのではありません。若くして死を迎える人もいます。
わたしは丁度40歳の時、生まれて初めての人間ドックを受けたことがあります。しかし、その検査で肺に異常があると言われて、2か月に渡って二つの総合病院で精密検査を受けたことがあります。幸い、肺は何も問題がなかったのですが、自分にとってはその2か月間死を深く考えるきっかけとなりました。
わたしが広島教会に来てから、今まで10名ほどの方が天に召されました。わたしはその方々の葬式説教の準備のために、その方々がどのような人生を送って来たのかをいろいろな資料を探して調査し、亡くなられた方がどのような信仰を持っておられたのかを推測して説教を作りました。
ある方は、きちんと自分の死を前もって準備され、ある方は準備をする間もなく、またある方はほとんどその信仰生活がよく分からない場合もあります。
人は死んだ後では何も語ることが出来ません。もし、残された家族や友人の方々に何かを伝えたいことがあれば、それは生きている内に何だかの形で残しておかなければなりません。そうでなければ、場合によっては残された家族が混乱に陥る場合もあります。そして、死はいつ、どのような形で訪れるか分からないので、誰でも「先が長い。」と思わずに今からでも一つ一つ残しておいた方が良いと思います。何かを書き残すこともありますが、自分が周りの人々にどのような人であったのかを考えるのも大切でしょう。
ふっと思ったことがありました。今、わたしがもし死んだら、わたしは妻にとってどんな夫であったんだろうか。子供たちにとってわたしはどんなお父さんとして記憶に残るだろうか、そして教会の人々にはどのような牧師として記憶に残るだろうか。そのようなことを考えると、今自分が生きる瞬間瞬間がとても大切に感じられました。誰かに寂しい思いをさせたことがあるならば、誰かに誤解されたことをしたならば、それを何とか日を置かずに、謝ったり、誤解を晴らさなくてはいけません。
ある牧師の本を読んだことがありますが、彼はその本の中で「人は生きて行くのではなく、死んでいくのだ。だから、死を準備しないといけない。何かを始めることよりも結ぶことが大切である。」と言っていました。
なるほど、わたしたちは生きているのではありません。本当に、わたしたちは死に向かって日々を過ごしています。しかし、それが「いやだ。」とか、「怖い。」とかのことにならないためにも、人生が死ですべてが終わることではなく、死後の希望があることを持ち続けることです。
聖書には、イエス・キリストを信じる人々は、イエス・キリストが死から復活したように、やがて最後の日に死から復活し神の国を受け継ぐ者とされることが書かれています(1ペトロ1:3-5参照)。クリスチャンはこのような聖書に基づいて決して死を恐れることなく、むしろ、死は神の国つまり天国に入る一つの過程であると思っています。そして、死をただ悲しむばかりではなく神の国への希望として考えています。
あなたはどのようなあなたの人生の最後を準備しているでしょうか。もし、死への恐れや不安を持っているならば聖書を読むことをお勧めします。きっと、あなたの人生を喜びと希望をもって結ぶことが出来る、その解答を得ることができると思います。今日の日があなたにとって素晴らしい人生の一日となりますようにお祈りいたします。