2018年2月11日(日) 共に生きる(2)障害
おはようございます。広島教会の牧師、申です。先週に続き、共に生きるシリーズとして、今日は「障がい」について考えたいと思います。
あなたの身近なところに障がいを持っておられる方がいらっしゃいますか。あるいは、もしかしてご本人が障がいを持っておられるかもしれません。
わたしの人生の中で一番最初に出会った障がい者は、大学1年生の時の同級生でした。神学大学の寮生活でしたが、隣の部屋には小児麻痺で車いす生活をしている友たちがいました。学校は車いすの学生には対応できない建物でした。彼が入学するに伴い、彼の部屋は車いす生活ができるように改造され、共同トイレは入口を広げる工事が施されました。しかし、エレベータはありません。だから、同じ授業を受けているわたしを含む何人かの同級生が、いつも彼を車いすごと持ち上げて階段を上ったり下ったりしました。
日本に来て、最初に通った日本人教会は精神障がい者が多い教会でした。牧師先生がカウンセリングの専門家でもあって、そのような障がいを持った方が多く集まっていました。そして中にはダウン症の少年が一人いて、わたしと妻を良く慕ってくれました。障がい者が多いその教会では、健常者よりも障がい者が中心となって物事を考えていたと思います。
暫くして我が家にも子供が与えられました。先週の話にも申しましたが、息子が発達障がいであることを3歳検診で知りました。息子は今特別支援学校の高等部2年生です。
息子の名前はノアです。韓国出身のわたしは、子供が日本でも韓国でも同じ名前で呼ばれて欲しくて、その相応しい名前を聖書から見つけました。「ノア」は、「慰め」という意味があって、多くの人々に慰めを与える人になって欲しいと願いを込めて名付けました。今思えば、本当に彼はわたしたち夫婦に大きな慰めになっています。また、彼を通して多くの人々が慰められています。
しかし、日々の生活はままならぬ戦いの日々です。言葉でコミュニケーションができない息子は、いつも声を大きく上げています。わたしたち夫婦は、彼が満足して大声を出さないようにいつも注意を払っています。人が多い所には中々連れていけません。いつ大きな声を上げるか分からないからです。
息子を育てながら(いつも思っていることは)、社会が障がい者に対する良い理解を持つことが出来、親がいなくても一人で暮らせることが出来ることを願っています。この頃、障がい者のための様々な配慮がなされ、建物や公共交通施設などにもバリアフリーがなされていることに感謝しています。しかし、何よりも必要なのは心のバリアフリーだと思います。多くの人々が何の違和感なく障がい者を快く受け入れる時が訪れることを、心から願っています。
聖書には多くの病人、障がい者が登場します。そして、当時のユダヤ人たちは、そのような病気の原因が罪のせいだと思っていました。彼本人かあるいはその親の罪で神様を怒らせて、そのような病気を持つことになったと思ったのです。だから、彼らにとって病人や障がい者は罪人であり、近づきたくない汚れた者でありました。
しかし、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)とおっしゃって、多くの病人を癒し、多くの罪人の友だちとなってくださいました。
そして、ある日イエス様は病気で死んだ娘を生き返らせてくださいました。そのお父さんは必死になって娘の癒しをイエスに求めた人でした。イエス様は、すでに死んでしまった娘を生き返らせることを通して、父親の苦しみ、辛さ、無力さを一気に変えてくださったのであります。
障がい者と共に生きる家族は、その人を愛するがゆえに多くの苦労や大変な世話を耐え忍んで生きています。イエス様は、障がい者のみならず、障がい者と共に生きる人々にも目を向けてくださり、励ましと勇気をお与えくださいます。この世の多くの人々がそのようなイエスの愛によって生きる、そういう社会になることを切にお祈りいたします。