2018年1月7日(日) 新年に寄せて

 おはようございます。忠海教会の唐見敏徳です。
 新しい年、2018年が始まりました。「キリストへの時間」をお聞きの皆さん、いかがお過ごしでしょうか。今日は1月7日。おそらく、もうお正月ののんびりモードではなくなって、職場でも家庭でもいつもの日常モードに戻っている方が多いのではないかなと思います。今年も番組をお聞きの皆さんに神の祝福が豊かにありますように。

 さて、小学生くらいの頃の話なのですけれど、私は「新年」とか「新しい年」という表現に違和感を覚えていたことがありました。はっきりいって、どこが新しいんだろう、新しいことはどこにもないんじゃないか、と思っていました。
 たとえば、元旦。普段より遅く起きますと、郵便受けに輪ゴムで束ねられた年賀状といつもの倍くらいの厚さの新聞が入っています。父、母、妹と食卓について朝食にお雑煮とおせち料理を食べます。テレビをつけると駅伝の中継やかくし芸大会をやっています。そして午後に祖母のいる親戚の家にいってお年玉をもらいます。
 というように、新しい年を迎えたら、そこには見慣れたいつもの定番メニューがずらっと並んでいる感じです。小学生のころの私は「新年」に「新しさ」を感じることはなくて、それはどちらかといえば退屈な時間でした。

 そんな風に考えていた私でしたが、ある時からこの新年の定番メニューに新しさを感じるようになりました。それは自分がお年玉をもらう側からあげる側になった頃からです。ほぼこの時にしか会わない親戚や知人の子どもたちの姿を見ると、1年前の姿とのギャップに、そこに確かに時間の流れがあり、新しい何かが動いているのだ、と実感できます。毎日見ているわが子に対しては気づきにくいですが、それでも新しい変化を感じ取ることができます。そして、それはとても嬉しく、感謝なことだと思うのです。

 そのように感じられるようになって、ちょっと大げさかもしれませんが、この世界に対する見方が変わりました。何も新しいものはないと自分は感じていたけれど、実際にそこに新しいものがなかったわけではないこと。自分がそれに気づかないだけで、どんな時でも、どんな場所でも、そこに新しい何かがあるはずで、そしてささやかなことかもしれないけれども、それを見つけられたとき喜びがあること。

 聖書は、主なる神がこの世界をお造りになったこと、それもよきものとしてお造りなったと教えています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)
 わたしたちが共に生きるこの世界には、まだわたしたちは気づいていないけれど、神が備えておられる素晴らしいものがたくさんあります。この新しい年、番組をお聞きの皆さんが、そのような素晴らしい何かにたくさん出会うことができますように。