2017年12月31日(日) 安らかに去ることのできる人生
おはようございます。今日は大みそか、この年の最後の日です。年の終わりは大切な意味を持っています。年の終わりは、私たちの人生にも終わりがあることを深く考えさせてくれるからです。この年の最後の日曜日である今朝は、あらためて人生の終わりがあることを見つめつつ、人生の意味について考えてみたいと思います。
今朝の聖書の個所は、私自身も一年の終わりにいつも心に留めている個所です。特に自分も高齢者に数えられる年齢になって、しみじみと心に響いてくる聖書の個所なのです。
今朝の聖書の物語には一人の女性が登場しています。84才で、当時で言えば文字通りの人生の終わりに立っている老人です。名をアンナという預言者です。やもめの女性でした。聖書の中ではここしか出てきません。地味な存在で見過ごしてしまうような、しかし深い印象を与える女性です。この女性についてはわずかの情報しかありません。
聖書によると、彼女は7年間だけ夫と住み、84才までやもめ暮らしでした。当時の結婚年齢から考えて、恐らく60年間ぐらいはやもめ暮らしだったと思われます。当時のイスラエルではやもめは特に弱い立場でした。ですから60年間のやもめ暮らしというだけで、彼女の苦労の多い、悲しみと苦しみのいっぱい詰まった人生を容易に想像できます。そのような人生を背負いつつ、人生のたそがれの中に彼女は立っています。
しかし、このアンナは両親に抱かれて清めの儀式のために神殿に連れてこられた幼子イエスにお会いします。人生の終わりが近い老人と幼子イエスとの出会いがここにあります。聖書は同じ場面でもう一人シメオンという老人も登場させています。聖書はそのシメオンに救い主イエスとの出会いの意味を語らせています。
シメオンはこう語っています。「わたしはこの目であなたの救いを見た。」(ルカ2:30より)、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2:29)これはそのままやもめ女のアンナの思いを表しています。アンナも主イエスに出会ってから、喜びのうちに神を賛美し、人々に幼子のことを語っているからです。全く同じ気持であったと言って良いでしょう。
「今こそ、安らかに去ることができる人生」とは何と素晴らしいことでしょうか。「安らかに去る」とはもう悔いはない、ということでしょう。握るべきものは握った。自分の人生はこの一つのことによって意味を持ったということでしょう。聖書の中で、主イエスは「無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。」(口語訳ルカ10:42)と教えられました。
アンナはそのなくてはならない一つを握ったということでしょう。人間の目から見たなら彼女の人生は挫折した人生、悲しみと苦労の多い人生だったかもしれません。しかし、たとえ人生の終わりの時であったとしても、キリストに出会い、キリストに結び合わされた時、彼女の人生は意味あるものとなったのです。事実、彼女はこの幼子こそ救い主であると証言する大きなそして光栄に満ちた役割を担ったのです。そして聖書を通してその役割を担い続け、今も私たちに語りかけているのです。神の計画は人間の思いをはるかに超えるものなのです。
私は彼女の人生を思うとき、クリスマスツリーを思い起こします。ひとたびスイッチが入り、電気が流れると、真っ暗であったものが一瞬にして輝き始めるのです。アンナの84才の人生もそれまで暗いままであったかもしれません。彼女の人生のたそがれを迎えています。しかしイエス・キリストに出会い、キリストに救いを見出した時、彼女の人生はキリストを証言する器として輝き始めるのです。人生の全体が深い意味を持つものとなったのです。
私たちにとっても自分の人生は何であったのかと思うときもあるでしょう。あるいは自分の人生は意味があるのか、と思うときもあるかもしれません。しかし、この年老いた女性アンナは人生の意味がどこから生まれるのかを証言しています。
どのような人生であったとしても、イエス・キリストを信じ、キリストに従って歩み始める時、その人生は輝き始めることを私たちに指し示しているのです。私たちは、そして皆さんとともに私も、新しい年もこの光に照らし出されて、この光が与える安らかさの中で神のもとに召されるその日まで、地上の歩みを神に喜ばれるように忠実に歩みたいと思います。