2017年12月24日(日) 王なるキリストの誕生

 おはようございます。元気にお目覚めでしょうか。クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは12月25日ですが、多くの教会では、今日クリスマス礼拝がささげられると思います。ぜひ、クリスマスを教会でお迎えください。

 クリスマスと聞けば、誰しも美しくロマンチックな世界を思い描いておられることと思います。しかし、クリスマスのどの物語を読んでも、聖書はけっしてロマンチックな世界を描いておるわけではありません。むしろ、人生の生々しい現実をわたしたちに示しています。今朝の聖書箇所もそうです。ここに示されている悲惨な現実にしっかりと目を開きつつ、聖書が語るクリスマスのメッセージを聞き取りたいと思います。

 今朝の聖書の中で、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」とあります。ヘロデ王の時代というこの一言で、ロマンチックな幻想はただちに打ち砕かれます。悲惨な現実の世界を見せつけられることになります。

 ヘロデ王は非常に残忍で疑い深い王として有名でした。特に晩年は「殺意に満ちた老人」というあだ名がついていたほど問題の人物でした。事実、自分の妻とその母親を殺し、息子たちでさえ殺害しました。ローマの皇帝アウグストゥスさえ、「ヘロデの息子であるよりはヘロデの豚の方が安全だ。」と皮肉ったほどです。

 そのような「殺意に満ちた老人」の姿は、イエス・キリストの誕生の時にもはっきりと現われています。はるか当方から駆け付けた占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と尋ねていました。
 聖書は「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。」と記しています。王としての地位が奪われるのではないかと不安に感じたのです。その不安の中で、ヘロデは、その幼子が誕生すると予想されたベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。クリスマスの物語には、このような血の匂いが辺り一面を覆うような悲惨な現実が記されているのです。

 しかし、考えてみますと、実は私たちの今生きているこの世界も「ヘロデ現象」とでも言うべき悲惨な事実に満ち溢れているのではないでしょうか。親が、自分が楽しむために邪魔だと言ってわが子を殺す。あるいは子どもは子どもで自分の気に入らないからといって親を殺す。私たちもそのような暗く悲惨な時代の中に生きているのです。

 聖書は「イエス・キリストはヘロデの時代にベツレヘムにお生まれになった。」と記しています。聖書は残酷なヘロデ王との対比の中で王なるキリストの誕生を告げています。この王に目を留めるとき、ヘロデとわたりあうというような王でないことはすぐにわかります。確かにこの幼子は真の救い主、真の王としてお生まれになりました。しかし、王であるこの幼子は飼い葉桶の中に誕生されたという事実を聖書は伝えています。

 ルカによる福音書は、イエス・キリストの飼い葉桶における誕生の事実を「あなたがたへのしるし」(2:12)と記しています。いったいいかなる「しるし」なのでしょうか。実はこの「しるし」も「血のしるし」を意味していました。しかし、これは幼子を皆殺しにするような残酷な「血の匂い」ではありません。イエス・キリストの十字架の「血の匂い」を意味していました。

 今朝の聖書の箇所でもその点が示されています。東方から訪ねてきたこの学者たちは、幼子イエスに「没薬」を贈り物としてささげました。それは十字架の死を暗示しています。没薬は死の葬りのために用いられたからです。

 この真の王であるイエス・キリストの誕生における「血の匂い」は、ヘロデの「残忍な血の匂い」とは全く別の香りを放つものでした。自分の権力を護るために幼子を抹殺する「血の匂い」ではありませんでした。真の王であるイエス・キリストは、ご自分の民を救うために、ご自身をささげ、自分自身を十字架にかけ、自分自身の血を流す王でした。

 ヨハネの手紙一3章の16節は「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」と語っています。わたしたちを愛し、わたしたちを救うために、ご自分の血を流してくださったのです。ご自分の血を流してくださったことによって、私たちに神の愛が示されたのです。この「血の香り」は「愛の香り」なのです。罪の赦しと永遠の命をもたらす香り、光をもたらす香りなのです。

 私たちがクリスマスにおいて指し示されているのは、この意味における王なのです。クリスマスにおいて、このイエス・キリストを真の王として受け入れるとは、ヘロデの世界に別れを告げ、別の道を歩むことを意味しています。憎しみや恐れ、不安の中で生きるのではなく、愛と平和に生きることを意味します。クリスマスのこの時、この王を見つめ、この王を心にお迎えし、この王に従いたいと思います。