2017年12月17日(日) へりくだって主イエスを迎える
おはようございます。この年ももうクリスマスを迎えます。次の日曜日には教会ではクリスマス礼拝がもたれることと思います。今朝はクリスマスの物語から、クリスマスをふさわしく迎えるための備えをしたいと思います。
聖書によりますと、大いなる喜びをもたらす救い主キリストの誕生の知らせは、羊飼いたちにもたらされました。羊飼いは、当時社会的には貧しく差別された人々でした。法廷で証人として立つ資格さえありませんでした。この人たちに御使いが現れ、救い主である幼子の誕生による大いなる喜びを告げたのです。そしてこの羊飼いたちが「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。聖書は、この人たちこそ幼子イエスをお迎えするのにふさわしい人々だったと語りたいのです。
私たちの今日の時代は、上へ上へと目を向ける上昇志向の時代です。多くの人々は良い高校、良い大学に進学し、良い企業に就職し、会社では出世して良いポジションを獲得できるように、そして経済的な豊かさを得ようと絶えず上を目指して歩もうとします。繁栄と華やかさの中に生きがいと喜びがあるかのように思い込みがちです。
しかし、それは虚栄であり、幻想かも知れません。事実、それほどの上昇志向に生きているのに、私たちの社会を覆っている空虚さや虚脱感はいったい何なのでしょうか。精神的には安らかさからははるかに遠く、不平や不満、不安や行き所のない苛立ちにさいなまれているのではないでしょうか。
羊飼いたちは上昇志向とは遠い世界に生きていた人たちでした。仕事は羊の世話だけです。社会的にも貧しく、人々から無視された底辺の人々でした。しかし、その羊飼いたちに救い主の誕生の知らせが、大いなる喜びと平和の知らせがもたらされたのです。そして事実、この羊飼いたちが飼い葉桶に寝かせられている幼子を見出し、神を崇め、賛美しながら、羊飼いとしての職場に帰って行きました。彼らは約束された喜びと平和を心いっぱいにいただいて帰って行ったのです。
このように申し上げることは、恵まれたポジションに就くこと自体が悪いとか、罪だとか、決めつけているわけではありません。そのような場に導かれたなら感謝し、神が喜ばれるようにそれを用いればよいことです。しかし聖書は、私たちが見逃しがちなこと、喜びや平和がいったいどこにあるのかを羊飼いを通して、象徴的に示したいのだと思います。
私どもは、日々の生活の中ではいつも華やかな場にいるわけではありません。多くの場合はつつましい日々の生活です。台所の生活や、会社の事務机の前の生活や、畑の農作業や、あるいは土木工事の現場で汗を流し続ける生活をしているのではないでしょうか。
しかし聖書は、羊飼いたちが救い主を見出し、喜びと感謝に溢れた事実を通して、何が私たちに平安や喜びをもたらし、生きることに輝きを与えてくれるのかを示そうとしているのです。上昇志向の生活では、飼い葉桶に寝かされている幼子を見出すことは難しいことなのです。
私は一度有名な建築家、安藤忠雄さんが設計された「光の教会」を訪ねたことがあります。その教会では、説教壇の後ろに大きな十字架の切込みが入っていて、そのスリットから太陽の輝く光が教会の内側に明るく差し込むようになっていました。ですから「光の教会」と呼ばれています。
さらに、会堂のフロアはかなりの勾配で下に向かっており、いわばその一番下の底に当たる部分に説教壇が置かれていました。ですから、会衆は、後ろから十字架の光を受けつつ語られる説教者の言葉を下の方に視線を向け、下の方から聞こえてくる聖書の言葉に耳を傾けることになりますし、それが求められます。とても印象的な構造でした。救い主の誕生が羊飼いにもたらされたことは、この構造とよく似ていると思います。
私たちはクリスマスを迎えようとしています。飼い葉桶の中に生まれられたキリストに喜びと光を見出す者はへりくだって、下にこそ目を向けなければならないのです。上昇志向ではなく、低くへりくだって光としておいで下さったイエス・キリストに目を注ぎ、その主イエスを心の内にお迎えしたいと思います。