2017年10月29日(日) 義に飢え渇く人々の幸い
おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。今月は、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、四つ目の祝福についてです。
マタイによる福音書5章6節をお読みします。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
まず「飢え渇く」とはどういうことを指すのでしょう。昔、とくにイエス・キリストの時代のパレスチナでは、一日の労働賃金はごく僅かなものでした。そのため、その賃金だけでは、家族は十分に食べていけなかったそうです。また、夫が一日失業すれば、その家庭は空腹に見舞われました。このように彼らは、切実な飢えを覚え、餓死との境界線を常にさまよっていたのだそうです。渇きも深刻でした。
日本では、水道の蛇口をひねれば、いつでも家の中で、澄んだ水をいくらでも飲むことができますが、昔のパレスチナではそうではありませんでした。イエス・キリストが語られた「飢え」とは「餓死しつつある人が食べ物を求める姿」であり、「渇き」とは「水を飲まなければ死んでしまう状態」なのです。そして、「義に飢え渇く人々」とは、「飢えのために死にそうになっている人々が食べたくてたまらないのと同じように、また渇きのために死にそうになっている人々が飲みたくてたまらないのと同じように、義を慕い求める人々」のことを指します。
では「義」とは何でしょう。それは、神が罪人を「正しい人」として扱い、そのまま受け入れることを意味します。神が罪人を「義」とお認めになるとき、神は恵みと憐れみによって罪人を善人であるかのように受け入れられます。このことによって、神と人との間に「新しい関係」が生まれます。神が私たちをそのままの姿で受け入れ、愛し、赦そうとされるとき、今までは距離があったところが親密になり、疎遠だったところに友情が起こり、恐怖だったところに愛と感謝による信頼が起こります。「義と認められる」とは、「神との正しい関係が与えられる」ということです。
私たちの「義」に対する欲求とは、どれほどのものでしょうか。私たちは、餓死しつつある人が食べ物を求めるように、渇いて死にかけている人が水を求めるように「義」を求めているでしょうか。
イエス・キリストの御許には、大勢の病人が来ていました。その病人の群れが、山の上に座られたイエス・キリストを求めて山に登って行くということは、並大抵のことではなかったはずです。自ら歩いて山に登り、イエス・キリストの後について行ったのです。遠くても、不便でも、疲れていても、どんなに痛みや苦しみを伴ったとしても、義なるイエス・キリストを慕って御そばに集まってくる、そういうひたすらにご自身を求める人を、イエス・キリストは「幸いである」と言って祝福されるのです。祝福は、自分を見れば失敗や欠点ばかりであるにもかかわらず、なおも最善のお方、最高のお方に情熱を持ち続ける人に、豊かに与えられるのです。
この四つ目の祝福には、次のような約束が続きます。「その人たちは満たされる。」この「満たされる」という言葉は、完全に満腹するまで十分に食べさせることを意味します。もし私たちが神のみが与えることができる「義」に飢え渇くならば、神は私たちを空腹のままで去らせないで、私たちを満足させ、私たちの切なる望みを豊かに達成してくださるので、私たちの魂は大いに満たされることでしょう。
この四つ目の祝福の約束は「神と正しい関係に入れられることを自分の最も強い願望とする人々は、満腹になるほど豊かに祝福される。」ということです。あなたも、神との正しい関係に入れられることを切に求めていきませんか。