2017年10月22日(日) 柔和な人の幸い

 おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。今月はイエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、三つ目の祝福についてです。
 マタイによる福音書5章5節で、イエス・キリストは次のように教えておられます。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」

 「柔和」とは、どのような態度のことを指すのでしょう。例えば、旧約聖書に登場するヨブの態度です。ある日突然、すべての家畜、すべての財産、すべての子どもたちを失ってしまったヨブは、神への恨み言は一言も言わず、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言いました(ヨブ1:21)。またイエス・キリストは、ご自分が十字架にかけられて殺されることを予め知っておられましたが、その殺される日の前夜、父なる神に祈られるとき、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と言われました。これこそ、神に対する柔和な態度です。

 これらの例から分かりますように、「柔和な人々」とは、神との関係において、神の導きと神の摂理とを、謙遜と従順とをもって受け入れる人々のことを指します。また、神のなさることは常に最善であり、神はすべてのことが益となるように常に働いてくださることを確信して、人生に何が起ころうとも、恨みを持ったり、苦々しく思ったりしない人々のことを指します。
 
 「柔和な人々」とは、また、神に完全に信頼し、完全に服従し、完全に自分を委ねる人々のことを指します。自分は弱く、神が必要であることを自覚する人です。人間が本当の意味で人間となれるのは、神が創造主であって、自分は被造物であり、神無しには何もできないことを知るときです。赦される必要があることを自覚する謙遜さをもった人々、これが、柔和な人々です。

 また、人との関係において、「柔和」とは、常に正しいときに怒って、適切でないときには怒らないということです。偉大な指導者であったモーセについて、民数記は「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(12:3)と記しています。モーセは優柔不断な人ではなく、骨なしの人物でもありませんでした。激怒することもできましたが、その怒りは常に制御されていて、必要なときだけ怒ることができた人でした。

 イエス・キリストは、このような「柔和な人々」に、どのような祝福を約束されているのでしょうか。それは「その人たちは地を受け継ぐ」という約束です。天の国に入れられるとき、神が地を統べ納めるその世界統治に、私たちも参加させていただけるということです。やがて、私たちが天の国にはいるとき、私たちは、神と共に世を治める者となるのです。

 今、私たちが住む「この世」は、父なる神の御手から、しばらくの間、まるで世の人々のものであるかのように預けられていますが、それは、神の子である私たちの受け取るべきものをただ一時的に使わせてあげているにすぎません。柔和な人々こそ、地を受け継ぐ者なのです。

 今、このラジオを聴いているあなた、神にご自身を委ね、完全に神のご支配に身をゆだねてみませんか。神に対して正しく、他者に対して正しく柔和に接する者にしていただきましょう。天の国で神が地を統べ納めるその世界統治に参加させてくださるということまでは、まだ想像できないかもしれませんが、神だけが与えることのできる命に与る者になることを求めてみませんか。