2017年10月15日(日) 悲しむ人の幸い
おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。今月はイエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、二つ目の祝福についてです。
マタイによる福音書5章4節に「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」とあります。「悲しむ」と訳されているギリシャ語の言葉は、ギリシャ語の中で悲しさを表す最も強い言葉です。それは穏やかな悲しみではありません。悲しんで涙を流すことを表します。この悲しみは、人の心に食い込んで、どうにも隠すことのできないもの、心に痛みを感じさせるもの、押さえても、押さえても涙が出てくる、そういう種類の悲しみです。そうなりますと「このような悲しみに浸っている人が、どうして幸いなのだろう、どうして祝福なのだろう。」という疑問が生じるのではないでしょうか。
主イエスが宣教活動を始められたとき、最初に言われた言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。神に至る道は、悔い改めという門を通過することから始まります。悔い改めは、信仰生活の最初の行為であり、悲しみを伴います。自分の罪を悲しまなければ、悔い改めることはできません。人間が本当に変わるときとは、突然何かに突き当たって、自分の目が開かれ、罪とは何なのかを知るときです。自分自身が罪深い存在であることを思い知るときです。イエス・キリストの言われる「悲しむ人々」とは「悔い改める人々」という意味なのですね。
確かに、人はイエス・キリストを知れば知るほど、また、イエス・キリストに近づけば近づくほど、自分の罪深さに気が付かされます。そして、自分の罪の醜さにおののくとき、罪に対する深い悲しみを思い知ります。神とイエス・キリストに対して犯してしまった罪を思って嘆き悲しみます。十字架を見上げて、自分の罪がキリストを死に追いやってしまったのだと、自分の罪を恐れおののきます。そして、砕けた心の、深い悲しみを通ることになります。その「悔い改め」を通る人は「幸い」なのです。
では、自分の罪を悔い改める人々は、どのような「祝福」を受けるのでしょう。「その人たちは慰められる」という約束です。自分の罪のために、御心に適う悲しみをもって神の御前に出るとき、その人は、神の深い愛によって十分な歓迎を受けます。そして、神の愛によって、その人の悲しみは豊かに「慰められる」のです。
神は、悔い改めてご自分のもとに戻ってくる罪人を、ただ受け入れて迎えてくれるだけではありません。神は、罪人を一応は赦すけど、相変わらず犯罪者として取り扱うのではなく、尊い客人、あるいは子どもとして接してくださるのです。神は、その大きな恵みによって、私たちの過去の敗北を洗い流してくださるのです。そして恵みによって勝利の人生を歩ませてくださるのです。何と素晴らしいお方でしょう!
悲しむ人々は幸いです。なぜなら、慰められるからです。悲しみのうちに祝福があります。悔い改めに導かれ、神の赦しを受けるからです。神の御心に適う悲しみの内に、この上もない祝福があるのです。そして、赦しが与えられるとき、慰めが与えられ、信頼され、神の愛と素晴らしさが内側から滲み出るような人になれるよう、励ましを与えてくださるのです。だから、「悲しむ人々は、幸い」なのです。
今朝、罪のために深い悲しみの中にある人はいませんか。あなたも、その重荷を神の御前に差し出してみませんか。憐れみ深い神は、必ず、その罪を赦し、あなたを慰め、「よく来たね。」と言って、喜んで祝福してくださるはずです。