2017年9月24日(日) 死んだらどうなるの?

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 わたしがまだ幼い頃、自分が死んだらどうなるのか、とても不安だったことがありました。その頃のわたしは、誰かの死を間近に見たという経験がなかったにもかかわらず、不安だったのです。住んでいたアパートの裏に墓地があったので、なんとなく死は怖いと思ったのかもしれません。あるいはその当時通っていた幼稚園が、仏教系の幼稚園だったので、宗教的な雰囲気の中で何か感じるものがあったのかもしれません。死への恐れは、夢にまで見るほどのものでした。

 時が移って思春期の頃は、だれもが通る道かもしれませんが、「死」という大きなテーマについて一通りは考えました。考えてみたところで、どうなるものでもありませんが、難しいことを考えることがかっこいいと思い込んでいたのかもしれません。

 それから先、今に至るまで、様々な人の様々な形の死に接してきました。牧師という仕事がら、ほかの人に比べれば人の「死」に接する機会は多いかもしれません。また「死」について考えたり、話したりする機会もほかの人よりは多くあります。そうではありますが、たいていの人と同じように、自分の死については、あまり考えてこなかったように思います。それは信仰があるから、という理由からではなく、毎日することがたくさんあって、自分が死ぬということまで考えが及ばなかったというのが正直なところです。それは、健康も仕事も整えられていたからこそのことで、幸せな人生を歩んでいたということだと感謝しています。

 今年、還暦を迎えて、再び「自分の死」ということが頭の中をよぎるようになってきました。わたしよりもずっと年上の方から見れば、60歳なんてまだまだ先が長いと言われてしまうかもしれません。確かに還暦を迎えて思うことは、ちょっと体力が落ちた程度で、今までとそう大きく変わってはいない、ということです。図々しいかもしれませんが、気持ちの中ではまだまだ若いと思っています。

 しかし、それでも「自分の死」ということが頭の中をよぎり始めたのには、理由があります。というのは、自分の2人の祖父は、わたしの今の年齢よりもはるかに若い時に亡くなっているからです。父も78(歳)のときに、世を去っていますから、もし、父の年齢まで生きるとしても、あと20年にも満たない時間です。

 20年はまだまだ先という見方もあるかもしれませんが、今から20年前を振り返れば、20年なんてあっという間の月日です。そうだとすると、これからの20年も同じような早さで過ぎ去っていくのだと思います。そう思うと、この限られた時間であと何ができるのかと、いろいろと考えてしまいます。そして、それと同時に、幼い頃「死」について考えていたことを思い出します。

 「死んだらどうなるの?」と恐れていた幼い頃でしたが、同じ質問を、今の自分なら自分にどう答えるでしょう。もし、キリスト教に出会わなかったとしたら、きっとまだおびえていたかもしれません。寿命のカウントダウンが始まる年齢になって、余計に不安を感じたかもしれません。しかし、今のわたしには、この地上での生涯も、この地上を去るときも、そう大きな問題ではありません。

 聖書にこう書いてあります。
 「高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

 地上に生きている今も、地上での生涯を終えて召されたあとも、変わることなく神の愛のうちにあるからです。キリストと出会ってそのことを知りました。