2017年9月17日(日) 神様はいるの?
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
ラジオのリスナーからよく聞かれる質問の一つに、「神さまって本当にいるのでしょうか。」という質問があります。もちろん、いると信じているからこそ、こうして番組を通して、聖書のお話をしています。
この質問に「はい。います。」と答えたときに、次に来る質問は「どうしてそれがわかるのですか。」という質問です。この質問には少々答えにくいところがあります。「聖書がそう書いているので、神は間違いなく存在します。」という答えも、あるいは、「私自身、神を信じていることがまさに神がいることの証明です。」という答えも、聞いている人にとっては、ほとんど説得力のないことです。そういう意味で、人間が納得できるように神の存在を証明することは不可能と言ってよいでしょう。
しかし、万が一、神の存在が証明されたとして、そのことにどんな意味があるのだろうと考えてしまいます。というのは、わたしにとっては、神の存在が証明されるよりも前に、信仰によってそのことを確信しているのですから、そのことが証明されたとしても、それで何かが変わるわけではありません。あえて言えば、自分の信じていたことが間違いではなかったと思うくらいです。
では、神を信じていない人たちにとって、神の存在が証明されたとして、何か意味があるのでしょうか。神の存在の必要性をもともと感じていない人たちにとっては、同じようにそれが証明されたからといって、何かが変わるわけではありません。神に従うかどうかは別の問題だからです。言い換えれば、神の存在を証明することは、信じる人にとってもそうでない人にとっても、ほとんど意味がないということです。
ところで、イエス・キリストは弟子たちにこうおっしゃいました。
「見ないのに信じる人は、幸いである。」と。(ヨハネ20:29)
この言葉は、信仰の本質を言い表していると同時に、目に見えない神を、人が知るには、信じることがどれほど大切であるかということを教えています。
確かに「知る」ということは、理性をもってなすことだと私たちは考えます。もちろんそのことを否定するわけではありません。もし、理性を無視して、信じることだけを求めるのであれば、イワシの頭でさえも信仰の対象となってしまうでしょう。
しかしそれでも、信じるという出発点がなければ、神を知る方法はほかにはありません。まず一旦信じたうえで、それを理性でどう深めていくか、その両方が大切な営みです。
「信じる」ということに関して、聖書にはこんな言葉も記されています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
これはヘブライ人への手紙11章1節に記されている言葉ですが、ここでも目に見えない事柄と信仰との関係が述べられています。
信仰によってしか確認できない事実があるということを、知っているだけでも、人生に対する姿勢が変わってくるでしょう。そして、「星の王子様」に出てくる有名な言葉の通り、「大切なものは目に見えない」ものです。目に見えない大切なものは信じて受け取るよりほかありません。
神という存在も、信じて受け入れるときにこそ、その大切さを自分のものとすることができるのです。