2017年9月3日(日) 宗教は必要?
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
宗教なんていらない…そう考えている人は案外多いのではないかと思います。そう思うのももっともだと思い当たる理由はいくつもあります。その思い当たる理由の中で大きいのは、あまりにも胡散臭い宗教が多いという現実があるからです。
人の弱みや不幸に付け込んだり、人から金品をだまし取ったり、果てはテロリストにまで発展する反社会的なものまで、およそ宗教とはかけ離れたものが世の中には多すぎます。
しかし、その一方で、人々の支えになってきた宗教も数多くあります。支えというのは、心の支えというばかりではありません。経済的に顧みられない人たちを助けたり、地域の発展に貢献してきた宗教も少なからずあります。それぞれの国や地域の文化を考えてみても、宗教に全くかかわりのないものを見つけ出す方が至難の業と思えるくらいです。それほどに人々の生活と宗教は切り離すことができません。
けれどもそれは昔の話で、今はもう人々は宗教を必要としない、とそう考える人たちもいます。自覚的に無宗教を貫く生き方に徹する人たちがいることも知っています。それはそれで、一つの人生観かもしれません。
しかし、そういう人生観の人たちがいるとしても、宗教そのものをなくしてしまうことは、おそらくできないと私は考えます。それは、人は生まれながらにして、自分を超越した存在を探し求める傾向にあるからです。これをキリスト教の教えで説明すれば、人は神に向くように造られているから、ということです。もしそうでないとすれば、世界にこんなにも宗教が多く、しかも長く存在してきた理由を説明することはできません。
もちろん、これに対する反論も知っています。宗教が生まれた理由は、神が人をそのようにご自分に向けて造ったからではなく、不安や恐怖心が人々に宗教を求める心を与えたからだ、という説明です。そしてその証拠として、科学の進歩で不安や恐怖が払拭された社会では、宗教に対する依存度も薄れてきているということが挙げられています。
けれども、不安や恐怖心がどうして宗教心と結びつくのか、はっきりとした説明がつきません。不安や恐怖心を忘れさせる効果ということなら、たとえば、快楽に没頭するとか、好奇心を満たすことに熱中するとか、いくらでも他の方法があるはずです。何故宗教に落ち着くのか、その説明は何でしょう。それと、先進国の宗教離れと科学の進歩とは、ほんとうに一対一の相関関係があるのでしょうか。むしろ、時代の進歩とともに、自覚的な無神論という新しい思想が誕生し、それが新しいスタイルの生き方を生み出してきたのではないでしょうか。そして、そのような思想が生まれる背景には、必ずしも科学が不安や恐怖を一掃したからというものではないでしょう。
ところで、新約聖書に登場するパウロという人物は、イエス・キリストの福音を携えて、地中海に隣接する地域を精力的に回った人でした。その時パウロが出会った人々は、様々な神々を信じる人々でした。ある日アテネでパウロが目にした祭壇には、「知られていない神に」と刻まれていました。パウロはこの祭壇の碑文をきっかけとして、アテネの人々にキリストの福音を語りました。アテネの人たちの宗教心をそこに見出したからです。
このことは、今の時代にも通じるものがあるように思います。似非宗教に嫌気がさすことがあっても、宗教心を黙殺することは誰にもできません。まことの神に向き合うときまで、人は「知られていない神」を求め続けているのです。