2017年7月30日(日) イエス様のご受難を覚えて
おはようございます。南与力町教会の森下明美と申します。今日は「イエス様のご受難を覚えて」感じたこと、思ったことをお話したいと思います。
私は小さい頃から不思議に思っていたことがありました。この宇宙全体はどのようにしてつくられたのだろうか。最初は水素原子1個としてもそれはどこから来たのだろうか。神様の存在を認めざるを得ませんでした。
聖書の創世記の最初には、「初めに、神は天と地を創造された。」とあります。そして人をも創造されました。「人は、どこからきて、何のために生き、どこへ行くのか。」という言葉をよく耳にしますが、聖書には明確に書かれています。神様に創られ、神様のご栄光をあらわすために生き、神様のもとへ帰っていく。本当は、平安と喜びの中で生きることができるのに、罪の悲惨さゆえに苦悩の中で生きているのです。
新約聖書には、イエス様の受胎告知からご誕生、そして十字架におつきになられる前の3年間ほどの公生涯のことしか書かれていません。イエス様はこの短い間にみ言葉を宣べ伝え、ご自身を証しして、多くの奇跡を行い、神様の栄光をあらわして、神様に立ち返るようにとおひとりおひとりを愛し、伝道なさいました。
今年のイースターを前にして私は、十字架の死を目の前にした3年間のイエス様のことに思いを巡らしていました。
自分の命があと3年であると宣告された時、人はどうするでしょうか。それぞれの年齢や状況によって異なると思いますが、ある方は、「え〜ッ、たった3年!?」と思うのか、「まだ3年もある。」と思うのでしょうか。病床にある時は日々弱っていく身体に絶望を感じ、いつ神様のもとに召されるのかな、とつい考えてしまう弱く脆い私たちです。「命のカウントダウンをしてはいけない。」とお医者さまに言われたけれど、確かに人の命は、神様の領域で私たち人間が思うことではないけれど、すべてをお委ねするより不安が先立ってしまいます。
イエス様はおひとりおひとりを愛し、み言葉とみ業において公的伝道を全うされました。私も、小さくても隣り人や神様に喜ばれる生活を与えられた賜物を活かしてひとつでも多く残したい、と望んでいます。
イエス様が十字架におつきになられる前の夜、ゲツセマネの園でひどく恐れ苦しみもだえ、悲しみに耐えられないほど祈っておられました。人が受けるべき罪の刑罰、永遠の死の身代わりとなって全く聖いお方がお受けになって下さったのですから、想像を絶する苦しみであったと思います。しかしその時、ひとりではなく、数人の弟子を伴っておられました。弟子たちは眠ってしまっていたのですが、そばに居ました。誰かにそばに居てほしい、共に祈っていてほしい、と思われたのでしょうか。このことで仲の良かった妹のような友達のことを思いだしました。
8年ほど前になりますが、彼女は36歳という若さで癌で亡くなりました。少しでも幼い子供たちのそばにいたいと、入退院を繰り返していました。彼女が亡くなる1週間前に呼び出されて実家を訪ねました。彼女は「明美さん、怖い。」と言って抱きついてきました。死への恐怖と不安、緊張、様々な思いが伝わり、彼女をぎゅっと抱きしめつつ、祈るほかありませんでした。彼女はクリスチャンではなかったですが、イエス様がそばにいるから、ずっと抱きしめていてくれるからと…何度も何度も自分に言い聞かすように一緒に祈りました。祈りのほかできることはありませんでした。
人間は無力です。でも、神様の力は人知をはるかに超えたお方です。一人一人の心の弱さ、脆さをご存知ですから、きっと耐えれる力と平安を与えてくださると確信しています。