2017年7月23日(日) 神の愛による勝利
おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
わたしたちは生きていく中で、様々な困難を経験します。それは信仰者であっても同じです。自分に敵対する力に囲まれて、苦しめられるということも起こります。使徒パウロも多くの困難、苦しみを味わった人です。
彼はローマの信徒への手紙8章36節で次のように語っています。
「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
これは旧約聖書の詩編44編からの引用です。旧約の時代も、新約の時代も、信仰者は苦しみを受けてきたのです。それは「一日中死にさらされ、屠られる羊」のような弱々しい姿です。しかし、そのようなことの中で、わたしたちは輝かしい勝利を収めている、とパウロは語ります(8:37)。この言葉は口語訳聖書では「勝ち得て余りがある。」と訳されています。それはしかし、わたしたち自身が強いからではありません。先ほど見ましたように、わたしたち自身は「屠られる羊」のように弱い者です。それにもかかわらず、わたしたちが「勝ち得て余りある」のは「わたしたちを愛してくださる方」、すなわち神様によって、です。そしてそのような神様のわたしたちへの愛は、御子イエス・キリストの十字架において決定的な仕方で示されました。
次のような言葉があります。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(8:32)
わたしたちは誰かのために自分の愛する子どもを死に渡すことができるでしょうか。わたしにはもうすぐ2歳の息子がいますけれども、そのようなことは考えられないことです。しかし、神様はそれをしてくださったのです。わたしたちすべてのために、ご自分の一人息子を、惜しむことなく死に引き渡されたのです。それはわたしたちが想像もできないほど、神様がわたしたちのことを愛してくださった、ということに他なりません。
わたしたちはそのような大きな神様の愛によって愛されているのです。そして十字架に死に、復活されたイエス様は今は神の右の座において、わたしたちのためにとりなしてくださっています。わたしたちはそのようなイエス・キリストの愛によって守られています。
8章の35節ではこう言われています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
どんな苦しみも、どんな悩みも、わたしたちをキリストの愛から引き離すことはできない。わたしたちが、苦しみの中で、「もう自分はだめなのではないか、死ぬのではないか。」そのように思えたとしても、その苦難の只中において、キリストの愛、神の愛はわたしたちを守り、包んでくださっている。そしてどんなものもキリストの愛、神の愛からわたしたちを引き離すことはできない。それほどに、主イエス・キリストの愛、神様の愛は強力なものであり、無敵なのです。
このことが8章38節でもくり返し言われています。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
そのような神様の愛にしっかりと包まれて、生き、そして死ぬことができる。そこにわたしたちの変わることのない喜びと慰めがあります。