2017年7月16日(日) 悔い改めと感謝
おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
皆さんは自分のことを「罪人」だと感じるでしょうか。わたしは両親がクリスチャンの家庭で生まれ、育ちました。教会では人間が皆罪人であること、そして罪人であるわたしたちのためにイエス様が十字架について死んでくださったということを、繰り返し聞いてきました。しかし、私は自分が罪人であるということをよくわかっていなかったように思います。むしろ自分は比較的良い人間だと思っていました。
パウロという人は、もともとファリサイ派の一員であり、律法を厳格に守ることに熱意を傾けて生きていました。パウロは過去の自分について、「律法の義については非の打ちどころのない者」だった、と言っています(フィリピ3:6)。つまり、彼は律法に照らして自分は正しい人間、非の打ちどころのない者だと思っていたのです。パウロを含めてわたしたち人間は、自らを正当化しようとする、そしてなかなか自分の罪を認めようとしないのです。
しかしパウロは、ローマの信徒への手紙の中で、自分自身の罪深さを告白しています。そのような変化は、パウロがイエス・キリストを信じ、聖霊によって心を照らされ、自らの罪深さについて気付かされたことによるのだと思います。彼はこの手紙の7章18〜20節で次のように語っています。
「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
パウロはこのように言うことによって、責任逃れをしようとしているのではありません。「自分の中に住んでいる罪が悪いことをしているのだから、自分は悪くない。」そのようなことを言っているのではないのです。
そうではなくて、パウロは自分自身の中で、罪というものがいかに強力な支配力を持っているかということを、そしてその罪の支配力に対して自分自身がいかに無力であるかということを強調して語っています。それは、いわばハイジャックされ、操縦席を乗っ取られた飛行機のようなものです。自分が行こうとする方向とは、全く違う方向に進んでいってしまう。自分ではなくて、罪にその体をコントロールされてしまっている。そのような中で、パウロは悲痛な叫び声を上げています。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)
罪に支配され、その虜となっている自分はもう死ぬしかない、滅びるしかない。このような惨めなわたしをいったいだれが救い出してくれるのでしょうか。それは救いを求める悲痛な叫びです。しかし、それは答えのない、絶望に至る叫びではありません。むしろパウロはこのような叫びから、すぐさま神様に対する感謝へと飛躍していきます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします。」(7:25)と。
自分の内に救いがないことを認識し、自分自身に絶望するときに、自分の外からやってくる助け、すなわち神様からの救いに望みを見出すのです。神様は、このような惨めなわたしを、主イエス・キリストを通して、救い出してくださる。そのような神様に感謝をささげるのです。
宗教改革者のルターは「キリストを信じる者の全生涯は悔い改めである。」と語りました。自らの内に住む罪と、なお犯してしまう悪を悔い改め続ける。しかしそれは同時に、そのようなみじめな自分をも救って下さる神様に感謝をささげる生涯でもあるのです。