2017年7月9日(日) 信じる者を救う神の義

 おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。先週の放送では、パウロという人が書きました「ローマの信徒への手紙」1章16節をお読みしました。そこにおいてパウロは、福音とは、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である、と語りました。しかしそれはなぜでしょうか。なぜ福音には信じる者すべてに救いをもたらす、そのような力があるのでしょうか。それは福音の内容と関わっています。そしてそのことが、続く1章の17節で語られているのです。次のようになります。

 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」

 福音の中心的な内容は「神の義」だとパウロは語ります。だからこそ福音には人を救う力があるのだ、と。
 ではいったい「神の義」とは何でしょうか。皆さんは「神の義」という言葉を聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか。
 今年は宗教改革から500周年の記念の年です。そして宗教改革というのは、マルティン・ルターという人が、今日の箇所に出てきます「神の義」を再発見したことによって始まったのです。

 ルターは最初、この「神の義」という言葉を憎んでいました。それはルターがこの言葉を「罪人を罰する神の義」というふうに理解していたからです。そしてそれが当時の一般的な理解だったのです。
 ルターという人は自分自身が罪人であるという意識に苦しんだ人です。修道院に入り、節制し、禁欲的な生活に励みました。しかし、いくらそうしても、自分が神の前に罪人であると感じ、良心に平安を得ることができなかったのです。それゆえ「神の義は福音の中に啓示されている。」という言葉にルターはつまずきました。律法によって十分自分が罪人であることを示されて、苦しめられているのに、神様は福音によってなおも、神の義と怒りを示されるのか。ルターはそのような神様に腹を立てた、とさえ言っています。しかし、その後ルターはパウロが言っている「神の義」の本当の意味を理解しようと御言葉と格闘しました。

 そしてついにルターは「神の義」を「神の賜物」として理解し始めたのです。すなわち、神の義というのは、罪人を罰する神の義ではなくて、むしろ憐れみ深い神様が罪人を信仰によって義としてくださる、そのような恵みの賜物としての神の義、人間の側から言うならば「受身の神の義」であることを理解し始めたのでした。その時のことを振り返って彼は次のように記しています。「ここで私は全く生まれ変わり、あたかも開かれた門を通って、パラダイスに入ったかのように感じた。するとたちまち聖書全体が私には違って見えてきた。」このようにして宗教改革は始まりました。

 そしてそのような「神の義」の理解の仕方は、旧約聖書とも一致しています。旧約聖書では、「神の義」と「神の救い」という言葉が並列に、同じ意味として出てきます。すなわち「神の義」というのは、わたしたちを罰する神の義ではなく、わたしたちを救う神の義、わたしたちを救ってくださる神様の正しい御業のことなのです。

 ではそのような「神の義」をわたしたちはどのように受け取るのでしょうか。そのことに関して、今日の御言葉は、神の義は「初めから終わりまで信仰を通して実現される」と言っています。この言葉はもともと「信仰から信仰へ」という短い言葉です。「信仰から行いへ」ではありません。最初は信仰によって神の義が与えられ、その後は行い、あるいは功績によって神の義が保たれ、完成されるということではないのです。「信仰から信仰へ」。神様の義は最初から最後まで、徹頭徹尾、「信仰によって」受け取られ、わたしたちのものとなる。そしてわたしたちは救われるのです。

 福音を聞いて信じる者は皆、自らの罪深さにもかかわらず、神様の義によって救っていただける。なんと感謝なこと、なんと喜ばしい知らせでしょうか。