2017年6月18日(日) 父の愛
おはようございます。忠海教会の唐見敏徳です。
今日は父の日です。先月の母の日に比べて力の入れ具合がいささか弱い気がしますが、それでもいろいろなお店で父の日のギフトのコーナーを見かけます。ラジオをお聞きの皆さんは、父の日に何か贈り物を贈りましたか。あるいは父の日のギフトを貰いましたか。どれほどささやかなものであっても貰うと嬉しいし、贈るのも嬉しいですよね。
6月の第三日曜日を父の日としてお祝いするのは、同日を父の日と定めているアメリカでの習慣に由来します。父の日の始まりについては、ソノラ・スマート・ドット婦人の提案によって1910年6月19日にワシントン州スポケーンで行われた教会の祝賀会を発端とする説がよく知られています。16歳の時に母を亡くしたソノラさんと生後間もない赤ちゃんを含む5人の弟は、父親によって育てられました。父への感謝の思いを強く持っていたソノラさんは、母の日と同じように父の日も祝うべきだと考えてアクションを起こし、それが6月第三日曜日の父の日として実現しました。
私の仕える忠海教会では、この日の礼拝後に感謝の時を持つようにしています。教会の女性と青年たち、そして教会学校の子どもたちがプレゼントを用意して、感謝の賛美とともに、教会のお父さんたちに渡します。ささやかですが、とても心温まる時間です。ちなみに母の日は、男性と青年たち、そして教会学校の子どもたちが、同じようにプレゼントを準備し、お母さんたちに渡します。
教会で父の日をお祝いするとき、その目的は父親への感謝の思いを伝えることだけではありません。父親への感謝に加え、神さまに感謝する時間にもしています。
なぜ父の日に神さまへの感謝を覚えるのでしょうか。
聖書はまことの神さまを父として表現します。天地万物をお造りになり、それを守り支えておられる神は、すべての人にとって父のような存在といえます。また、神さまからご覧になると、男も女も、大人も子どもも、老人も赤ちゃんも、すべての人が子どものような存在なのです。そして父親がその子どもを愛するように、いやそれ以上に、父なる神さまは私たちを愛しておられると聖書は教えます。
ルカによる福音書にある放蕩息子のたとえは、父なる神の愛がどれほど大きいものかを教えてくれます。このたとえ話の概要はこうです。父親の遺産を先取りした息子は、家を飛び出し、放蕩生活を送ります。やがて遺産を使い尽くして落ちぶれた彼は、父親のもとに帰ろうとします。勘当されても仕方のない彼を、父親はあたたかく迎え入れます。もう一人の息子が顔をしかめる中、父親は、息子が戻ってきたことを誰よりも喜ぶのです。
ここに登場する父親は神さまであり、放蕩息子は神から離れてしまった人間をあらわしています。そしてまことの神さまは、親子の縁を切られても仕方がないほどの人間であっても決して見捨てないということ、彼が悔い改めて自分のもとに戻ってくるときに、喜んで迎えてくださるということを教えてくれます。
今日の父の日、それぞれの父親に対して、そして父なる神さまに対して、心からの感謝を伝えることができますように。