2017年6月11日(日) 毒ガスとウサギたち
おはようございます。忠海教会の唐見敏徳です。
私の仕える教会のある忠海には、「大久野島」という島があります。忠海港から1時間に1本の割で運行する船に乗れば約10分で着きます。島の周囲はおよそ4kmで、島を一周しても1時間もかからないほどの小さな島です。この小さな島が、ここ数年、海外からの観光客も数多く訪れる人気スポットになりました。休日ともなれば、島への船が出ている港の駐車場は満車で、1時間に1本の割でしか運航しない船に乗船できない人が出るほど込み合います。
その人気の理由は、島に住む野生のウサギたちです。「ウサギの島」とも呼ばれるこの島には、700羽以上のウサギが生息していると言われています。この島で暮らすウサギたちはとてもフレンドリーなのです。キャベツやニンジンなどを持っていくと、たくさんのウサギがやってきて、触れ合うことができます。動物と触れ合うことはストレスの軽減、免疫力の向上などに役立つようですが、ウサギが嫌いでなければ、大久野島に訪れる観光客には確かに癒しの効果が期待できるでしょう。
しかし、多くの人がウサギたちのおもてなしによって癒される一方で、この島は癒すことの難しい負の歴史を抱えています。
昭和の初めから太平洋戦争末期まで、大久野島には日本陸軍の兵器工場が存在していました。ここで、国際条約で使用が禁止されていた毒ガスが製造されていたのです。秘密裏に毒ガス兵器を製造するため、徹底した情報統制が敷かれました。毒ガス工場で働く労働者に対して工場内のことを口外することを禁じるのはもちろん、そもそも労働者は国際条約で使用を禁止している毒ガスを作っていることをきちんと知らされていませんでした。大量破壊兵器である毒ガスは、製造すること自体が危険を伴う作業ですから、作業中に毒ガスに触れて重傷を負う方々や、命を落とす方々もありました。
敗戦に伴い、兵器工場は閉鎖され、毒ガスの製造は終了しました。しかし、未使用の毒ガスが大量に残り、その処分に際しても大きな問題が生じました。島内に残された毒ガスは、2年をかけて焼却、埋設、海中投棄などで処分されました。しかし、その後も廃棄された毒ガスによる被災事故、土壌汚染が続き、今もなおその影響が残っています。
「毒ガスの島」が「ウサギの島」に変わっていくのは70年代に入ってからです。1971年に地元の小学校で飼われていた8羽のウサギを島に連れてきて放したのが始まりだと言われています。天敵のいないこの島でウサギたちの数はどんどん増えてゆき、今ではウサギとの交流を求めて海外から観光客が訪れるほどになりました。
昨年の夏、ある障がい者の集いのために大久野島を訪れました。そのとき、かつて毒ガスを製造していた兵器工場の跡地でウサギたちがのんびり寝そべっている姿を見ながら、ある聖書の言葉を思い出しました。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2章4節)