2017年5月21日(日) 天に心を置く
おはようございます。平和の君教会の山下です。
先日、葬儀がありました。亡くなられたのは年輩のご婦人で、何回か礼拝にお見えになった方ですが、その後病状が重くなって入院され、容態が急変され亡くなられたのです。ミッションスクール出身で、残念ながら洗礼は受けておられません。ご主人はクリスチャンで若い頃、教会に行かれたそうですが、その後は出席なさいませんでした。しかし長く重い病に苦しんでいた奥様の介護と突然の死により、キリスト教式で葬儀を執り行ってほしいとおっしゃったのです。わたしも当然のことながら申し出をお引き受けしました。奥様の入院中も何度かお見舞いしたことがあり、万一の時にはすべきではないかと覚悟を決めていたからです。とても穏やかで慰めに満ちた葬儀でした。
先程お読みしました箇所は、その葬儀において読んだところです。山上の説教の中の1節で、「天に宝を積みなさい」という主イエスの教えとしてよく知られたところです。しかし誤解していただきたくないのは、これは何か人に喜ばれることをして功徳を積みなさいという教えではありません。何故なら私たちは真っ黒な罪人であって、どんな善い行いも汚れに染まっていて、神様に喜ばれる事など出来ないからです。イエス様の救いによる以外に、私たちは救われませんし、また天国に入る事は出来ないのです。
ではこのみ言葉は何を語っているのでしょうか。これは、この地上の旅路を歩む時、心を天に置いて歩みなさい、という具体的な勧めです。つまり目線を変えなさい、ということです。例えば小さな子供に接する場合、自然と私たちも身をかがめて話しかけたり注意したりするでしょう。それと同様です。天に目線を向けることで、地上だけを見つめていてはわからないこと、気づかないことがよく見えてきます。
ある方が世界遺産で知られる岐阜県の白川郷を訪ねられた時のことを書いておられます。ちょうど暑い夏の最中で、谷間の民家を一件一件訪ね歩いていたのですが、途中で気分が悪くなられたのです。丘の上で涼めばきっと良くなるだろうと考えて車で坂を登り、新鮮な空気を一杯吸い込もうとして眼下を見下ろした時のこと。パノラマのように合掌造りの民家全体を見渡すことが出来、あまりに美しいのではっと息をのまれたそうです。
私たちもどうしてこんな苦しいことばかり続くのだろうか、また出口のない真っ暗なトンネルの中を通っているようで行き先の見えない不安を覚える時も、天に心を置くことで神様の思いが分かる、それによって新たに自分自身や自分の歩みを見つめ直すことが出来ます。ではそれはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、生ける真の神様を礼拝する教会の礼拝に出席して下さるとよく分かります。神様のみ言葉を聞くことによって、私たちを深い愛と大きな憐れみをもってごらんになられている神様の思いをくみ取ることが出来るのです。
葬儀は何よりも、神様を礼拝する時です。普段私たちは自分一人だけで生きてきたかのように捉えがちですが、そうではありません。神様が共にいて下さり、導いてくださっておられるのです。何故なら真の神様が私たちに命を与え、それを支え続けて下さっているからです。そして人生の終わりに私たちの命を取り上げられるのです。しかしそれは悲しいことばかりではありません。わたしたちを再び神様のみ元へと招いてくださるためなのです。
私たちにとって最も大事なこと、それは真の神様を知り、誉め讃えることです。どうか皆さんもお近くの教会の礼拝に実際に出席してくださることをお勧め致します。