2017年4月23日(日) 愛されていますか

 おはようございます。広島教会の牧師、申成日です。
 ある本に書かれていた面白い統計がありました。「人は何も食べずに40日間生きることが出来るし、水を飲まずに3日間、空気無しに8分を生きることが出来るが、希望のない人は一秒も生きることが出来ない。」と。
 我々人間に生きる希望はどこから来るのでしょうか。わたしはその希望を与えるのが「愛」ではないかと思います。しかし、多くの人がこの「愛」の欠如によって命を失っています。

 聖書の中である女性が登場します。彼女は姦通をしているところ、いわば現行犯逮捕された人です。彼女にどんな背景があるのか、聖書には記されていません。しかし、姦通というところから、既に結婚していた人だと分かります。
 彼女は自分の結婚生活に満足していなかったでしょう。夫に愛されなかったかも知れません。子供達に嫌われたかも知れません。とにかく、その結婚生活に満足してなかったので、自分を愛してくれる人を求めます。

 そして、一人の男性と出会い、その人を愛するようになりました。その男性は彼女のことをまともに愛していたとは思いません。現行犯逮捕というと、その男も一緒にいるはずですが、聖書によると女しか捕えられていません。つまり、彼は逮捕の寸前、自分だけでも生き残ろうとして逃げてしまったと思われます。
 彼女はその男を愛していました。だから、彼の名前を人々に明かすことはしませんでした。彼女は自分が愛する人にも見捨てられた、とても可愛そうな人でした。
 当時のイスラエルの律法によれば、姦通した人は石で打ち殺されることになっています。家族にも見捨てられ、愛する人にも見捨てられ、そして多くの人々に恥をさらされた彼女は、「石で打ち殺される」運命でした。

 ところが、当時ユダヤ人の中には、ある人物に警戒を抱いていました。それはイエス・キリストです。イエス・キリストは自ら「自分がこの世に来たのは、罪人のために来た」と言いました。ユダヤ人たちはこの女を、そのイエス・キリストを罠にはめるために利用しようと思いましたので、イエスの所に連れて行きました。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こうした女は石で打ち殺せと、モーセ律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 イエスが「律法の通りにしなさい。」と言うと、「罪人のために来られた」と言っていたことがすべて嘘になってしまいますし、「その女を赦してあげなさい。」と言いますと、当時の律法を犯すことになりますので、どうにもならない状況でした。
 しばらくの後、イエス様は口を開きました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 だれが、この女に石を投げることが出来たでしょうか。だれも投げることが出来ませんでした。なぜなら、罪なんかない者は一人もいないからです。人々は年長者から始まって、一人また一人立ち去ってしまいました。
 そして皆が立ち去ってしまうとイエスはその女に言われました。「婦人よ。あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」

 この女性は、九死に一生を得ました。「死んでもおかしくない。多くの人々に石を投げられ悲惨な死を迎えるに違いない。」と思っていたのに、その自分を憐れんでおられる方がいた。そして、その方から真の愛を感じたのであります。それは、人間が犯した罪は憎むが、人間は憎まない、むしろ人間を愛するまことの神の愛なのです。

 神は御自分の独り子イエス・キリストを死に渡すほど、人を愛しておられる方です。誰にも愛されてないと思っている人でも、神様はあなたを愛しておられます。その神様にあなたの人生を委ねてみてはいかがでしょうか。