2017年3月12日(日) 助演男優賞

 おはようございます。清和女子中高等学校宗教主任の中山仰です。
 俳優の中井貴一さんをご存じでしょうか。すがすがしい印象を受ける俳優さんで演技力もあり多くの方から好感を得ています。彼のお父さんの佐田啓二さんは若くして交通事故で亡くなりました。年配の方なら覚えておられることでしょう。往年の名俳優の一人で、人気がありました。親子ですから雰囲気は似ていますが、また個性の違った一面があり、それぞれ良い役者です。

 その佐田啓二さんは、映画界で多くの賞を受賞しています。ある時に主演男優賞を受賞しました。その時の記者会見で、「今度は、助演男優賞を取ってみたいです。」と語ったそうです。それを聞いた佐田啓二さんの奥さん、つまり中井貴一さんのお母さんは、「せっかく主演男優賞を受賞したのに、わざわざ助演男優賞を狙うなどという発言は嫌味なのではないでしょうか」というような感想を述べたそうです。
 それを聞いた佐田啓二さんは、「そんなことはない。主演男優賞は特別な努力は要らない。周りの人たちがお膳立てしてくれて、脇役たちが盛り立ててくれるから取れる。でも助演男優賞はそうではない。本当に努力して、人目を忍んで練習して初めて取れる。そのような賞を心底取りたいと願っている。」と答えたそうです。

 脚光を浴びる俳優はついつい自慢したり、自分を偉いものであると錯覚してしまうものでしょう。佐田啓二さんの常におごり高ぶらないこのようなエピソードには教えられます。また実際の彼はそれにふさわしい人間性がにじみ出ている演技をし、受ける印象も何か温かいものを感じていたのも私だけではないでしょう。実際に私たちは、もてはやされたり、良い地位についているとなかなか謙遜になれないようですね。

 自分自身を考えてみます。地位もなければ有名でもありません。でも心の中で妬みとか、野望、名誉心などが山積していることをよく知っています。そんな自分の欠点や悪意を疎ましく思っていると、聖書にはテモテへの手紙二3章17節「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。とあります。これは朗報です。どうしたら神に仕えることができるのでしょうか。

 そのことを聖書では、よく表しています。新約聖書のテトスへの手紙3章3節から5節には、次のように言われているところがあります。
 「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」と。

 これほど悪くはないと思いながらも、幾つかの指摘は間違いなく当たっていることは否定できません。ですから神の愛にすがる以外にはないようです。自分で行う義においては全く神の前に評価されないことを自らが知っています。神の憐れみである救い主イエス・キリストの無償の贖いと、キリストの御霊によって新しく生まれ変わる洗い、即ち洗礼による以外にその道はないようです。

 私たちの行いや努力は、助演男優賞に程遠いことでしょう。ただ神の慈しみにすがりつくだけです。砕かれた魂をもって神に近づく時、聖霊なる神の導きにより、他人から顧みられずまた、どんな小さな生き方をしていたとしても、キリスト・イエスにある、主演男優賞を必ずいただけるという破格の恵みを頂くことができます。これが神の絶対的な約束です。