2017年3月5日(日) たすきの重み
おはようございます。清和女子中高等学校宗教主任の中山仰です。
毎年お正月に恒例の箱根駅伝があります。ランナーたちは淡々と走っていますが、相当な重圧との戦いがあるのでしょう。時間内に次の区間に入れないと次のランナーが見切り発車となり、たすきを手渡すことができなくなります。遅れた者も手渡されなかった方も1年間練習してきた悔しさが湧きあがる時ではないでしょうか。見ている私たちも胸を打たれます。何とかもう数秒待ってあげられないものかと思いますが、時間は待ってくれません。
これは団体戦の興味深さでもあるのかもしれません。私たちの清和女子中高等学校でも、長い間バドミントン部の強い時代がありました。ライバル校との戦いにおいて、団体戦となると個人戦と違って、大きな重圧がかかるようです。学校の優勝がかかるのでプレッシャーも半端ではありません。実力を持っている者でも、普段の力を発揮できない場合があります。互角に勝ち進んで行って、最後の大将戦で決着がつく場合などは、その代表的な場面を見ることになります。一歩及ばす負けた瞬間、学校全体の団体優勝はなくなります。そのとき、責任の重さと悔しさに大泣きをしているキャプテンの姿を時々見かけます。このように個人戦になると堂々と優勝する実力者であっても団体戦の重圧は計り知れないものがあるようです。
私たち教員も生徒たちの毎日の練習の厳しさをよく見て知っていますので、何とか勝たせたいと力一杯それぞれ自分の学校を応援します。でも優勝旗は一つしかありません。誰かが泣かなければなりません。そのように試合で競技をする者たちの体調管理と節制は、勝つためには絶対的に必要です。
聖書で主の弟子であるパウロも第1コリントの信徒への手紙9章25節から27節で、その点について次のように言っています。
「 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」と。
どんな立派な名誉や栄誉も尊い行為ですが、やがて埋もれてしまいます。そのように賞を獲得するためにも必要以上の努力と節制をするのです。どうして、朽ちることのない永遠の冠を得るために、自分の体を打ち叩いてでも服従させることをしないのでしょうか。
この話で思い出すのは、サン・テグジュペリの『星の王子様』の「もっとも大切なものは目に見えないんだよ」という言葉です。私たちは名誉にしても地位にしても、賞金においてはなおさら目に見えるもののために努力を積み重ねて行きます。体を打ち叩いてでも服従させようとするはずです。しかしそれらはみなやがて朽ちてしまうものです。もっとも大切なものは、見えないものです。見えないから朽ちることもありません。誰が見ていても見ていなくても善い行いをする人は、ある種の見えない善行であり、誰からも評価されなくても覚えられる行為でしょう。
ただしパウロがここで言っている「朽ちない冠」とは、来るべき世において父なる神から与えられる冠のことを言っているようです。永遠に朽ちることのない冠とは、分かりやすくいうと「永遠のもの」ですから「永遠の命」にほかありません。
聖書の一番終わりに置かれている新約聖書の『ヨハネの黙示録』では、未来のこととして、悪魔の試みにあっても「死に至るまで忠実であれ」と命じています。「そうすれば“命の冠”を授けよう。と約束されています。
大いなる苦難や艱難にあっても「決して恐れてはいけない」とあります。それは「永遠の命」を得るか否かにかかっているからです。悪魔がそそのかすような厳しい試練は辛いものでしょう。それでも賞品は、決して朽ちることのない命の冠です。キリストの教会はこの約束を受け継いで、代々タスキを渡してきました。こんなに尊い宝はありません。命をかけても惜しくないのです。しかもこの朽ちない命の冠は、イエス・キリストにあるチーム全員に手渡されます。途中からでも、少ししか走らない者でも、遅れてきた者でも、主の約束を信じて飛び込んできた全ての民族の誰彼にも惜しみなく与えられます。キリストの栄冠が、あなたに与えられます。