2017年1月29日(日) 愛してくださる神様と共に知る
おはようございます。高知教会の古口初穂です。
大学時代に聞いた講義で印象に残っているお話がいくつかありますが、その中でも特に印象に残っているお話が、倫理学の授業で聞いた「良心」についての話です。「良い心」と書く「良心」です。
「良心」の意味を辞書で引いてみますと、「善悪を判断し、自分の行いを正しいものにしようとする心のはたらき」とあります。その授業で先生がおっしゃったのは「良心には三つの種類がある」ということでした。良心に従って自分の行動を決めるとき、その判断の基準には三つのタイプがあるということです。
一つ目の良心は「社会的良心」という良心です。社会から見て、周りの人達から見て、その行動がどう思われるだろうか、ということを判断の基準にするタイプです。
二つ目の良心は「倫理的良心」という良心です。これまでの人生で培ってきた道徳に照らし合わせ、自分がその行動を許せるかどうか、ということを判断の基準にするタイプです。
そして、三つ目の良心は「宗教的良心」という良心です。信仰にもとづいて、その行動は神様の目から見てどうなのか、神様がどう思われるだろうか、ということを判断の基準にするタイプです。
三つの良心について簡単にまとめると、私たちは何か善悪の判断をするときに、人の目から見てどうか、自分の目から見てどうか、神さまの目からみてどうか、という三種類の目のどれかを気にしているということです。
では、みなさんが普段の生活の中で一番気にしていて、一番強く感じている目はどの目でしょうか。自分の行動を決めるとき一番意識するのはどの目でしょうか。
私はクリスチャンの家庭に生まれ、小さい時から神様の話をたくさん聞いて育ちました。そして、神様はいつも私といっしょにいて、私のことをよく見てくれているということを教わってきました。それは私にとってとてもうれしいことであり、またある意味ではこわいことでもありました。神様は人に見えないところでしたいいこともちゃんと見ていてほめてくださるけれど、人に見えないところでした悪いことも神様には隠すことができないからです。
良くも悪くも「神様に見られている」という意識をもって私は育ちました。だから私にとって一番気になる目は「神様の目」なんだと思います。
みなさんは「神様の目」を感じることがありますか?「そんなことをしたら罰が当たるよ」とか「お天道様が見ているよ」などの言葉を聞くことがありますが、キリスト教に限らず「神様の目」を気にする習慣が日本にはあると思います。
ただキリスト教の神様とほかの神様では、決定的に違う部分があります。それは、そのまなざしの温かさです。キリスト教の神様は、私たちの小さな悪いこともそれをしてしまう弱い心も知っていて、それでも愛してくださる神様です。だからキリスト教の「神様の目」は、悪いところを見つけて責めたてる恐ろしい目ではなく、悪いところも含めて愛してくださるやさしいまなざしなのだと思います。
聖書には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と書かれています。
私たちを愛して優しく見つめてくださる神様と出会うと、自分の行動の良し悪しを神様と一緒に判断することになります。英語やラテン語の「良心」という言葉には「ともに知る」という意味があるそうです。心の中に「宗教的良心」を持つということは、神様とともに世界を知る喜びと安心を得ることにつながるのではないでしょうか。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず/常に主を覚えてあなたの道を歩け。/そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」と聖書で約束されています。
今週も、あたたかいまなざしで見つめ、ともにいてくださる神様に信頼して歩みたいと思います。