2016年11月6日(日) 上からの知恵に満たされて

 おはようございます。お変わりありませんか。聖書のことばは、私たちの道の光、私たちの足の灯火です。今朝も聖書の言葉に耳を傾けましょう。

 今朝の聖書の言葉は、「本当の知恵とは何か」、あるいは「何がむなしい知恵か」を私たちの心に問いかけています。
 聖書はここで「知恵があり、分別がある人」と言っています。当時であれば最高の知識人のことです。その最高の知識人、知恵があり、分別のあるその人の知恵の実体を問題にしています。その知恵がどのような生き方と結びついているのかを問うています。「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と聖書は語っています。立派な生き方とは、良いふるまいとも訳せる言葉です。ふるまいの点で問題があったということです。

 現在の日本の教育状況を考えてみると良いと思います。日本の教育状況は世界的に見てもトップクラスでしょう。幼稚園から大学まで教育を受けているとすると、20年近い教育期間になります。そのような教育システムの中で、高い教育を受けた社会的にも責任のある人たちにおいて、信じがたいようなスキャンダルが、次々と報じられるようになっています。
 高度な教育を受けているのに、いったい何を学んできたのだろうと深く思わされるような出来事が起こっています。知恵の質が問われているのだと思います。

 今朝の聖書の言葉も偽りの知恵の問題を取り上げています。「知恵があり、分別がある人たち」が、ねたみ深く、利己的であり、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしている事実を明らかにしています。そして、ねたみや利己心のあるところ、混乱や悪い行いがうまれてくることを指摘しています。そのような知恵は「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」とまで言い切っています。それはひとことで言って、神を仰がず、神を畏れない知恵のことです。

 これに対して、聖書は本物の知恵についても語っています。「上から出た知恵」のことです。
 聖書によれば、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
 上からの知恵、天からの知恵。それは本物の知恵です。

 聖書の「箴言」という書の1章7節には「主を畏れることは知恵の初め」という有名な言葉があります。これは重要な言葉です。上からの知恵、神を畏れる知恵は、高慢とおごりではなく、謙遜さを含む知恵です。純真な知恵、神への一つ思いに溢れた知恵です。この知恵は、混乱と争いではなく、平和と温和さをもたらすものです。

 私たちが、天を仰ぎ、神を畏れる時、私たちは自分自身の罪を認め、キリストの十字架の前にへりくだらされます。キリストの十字架を仰いで罪の赦しを与えられ、神の愛を知り、平和と安らぎに満たされます。上からの知恵は、キリストの十字架を通して受け取る知恵です。そのとき、上からの知恵は、傲慢ではなく、謙遜に導きます。争いではなく、赦しと平和をもたらします。

 今日の私たちの社会の中で、高度な教育を受けながら、エゴとエゴとがぶつかり合い、人々はねたみと争いと混乱の中で疲れはてているように思えます。神への思いを忘れた知恵は、虚しさの中に私たちを追いやります。今日、おそらく必要としているのは、聖書が語る上からの知恵、天からの知恵ではないでしょうか。私たちを謙遜と平和に生きさせる知恵ではないでしょうか。
 確かに、主を畏れることは知恵の始まりなのです。