2016年9月18日(日) 失敗は成長のもと
皆さん、ご機嫌いかがですか。私は高知県下ただ一つのミッションスクール、清和女子中高等学校の校長、黒田朔です。
毎朝全校礼拝で、今日のチャペルのお話が生徒たちの心にいのちの養いとなるようにと願って話しています。今日のお話も、お聞きくださるあなたのお役に立てれば、と願っています。
私たちは失敗します。失敗しない人はいないですよね。
あなたは失敗した時どうなさいますか。ある人は失敗すると、なかなか立ち上がれず、引きずります。もし失敗から早く立ち上がることが出来たら、大げさに言うと、人生変わりますよね。
なぜなら、失敗もまた大事な経験で、成功からよりも、失敗からの方がもっと多く、学ぶことが出来るんじゃないかと思います。
その点ペテロは、よく失敗しました。しかしペテロのすばらしさは、立ち直りの早さと、失敗するごとに成長したということです。
ある時イエス様が、弟子たちに尋ねました。「人々は人の子、ご自身のことをだれだと言っていますか。」弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだ、エリヤだ。いや、ほかの人たちはエレミヤだとか、いろいろです。」
するとイエスさまは、弟子たちに聞かれました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」するといつも通り、ペテロは言いました。「あなたは、生ける神の御子、キリストです。」
流石です。ペテロの返事にイエス様は満足して、仰いました。「あなたがたがそう言えるのは天におられる神様の御業です。」
そして、その時から始めてイエスさまは、生ける神の子・キリストとして何をしようとされているかを明かしはじめられたのです。
「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえらなければならない」。
それを聞いたペテロは、すぐイエスを引き寄せていさめ始めたのです。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(マタイ16:21、22)
これこそ、ペテロ、「イエス様、命」のペテロの本心でした。
ところがそれを聞くやイエスは振り向いて、「下がれ。サタン。あなたはわたしを邪魔するものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロを一喝されました。ペテロはポカンですよ。何のことだか分かりません。
しかし、これこそイエス様がペテロに、また、ご自分の弟子と呼ばれる人に、教えておきたかったことでした。
それは、キリストが弟子に求めていること、それは単なる善意や思いやりではない。神が求めておられるのは、神様ご自身が期待し、求めておられることを行うことです。
WWJD。ある方はどっかで見たことがあるとおっしゃるかもしれませんが私も街角で見たことがあります、この日本で。これは、ハワイでよくみんながつけていたマークなんですが、WWJD(What Would Jesus Do?)、イエスさまならどうするかな、っていう言葉なんですよね。
たとえ善意であれ、イエスさまへの思いやりであれ、それがイエスさまの十字架を邪魔するものであれば、どんなことであってもNO!です。特に温かい言葉をもって、十字架に向かっているイエス様を鈍らせるようなことがあれば、それはサタンの仕業だ、と拒否されました。
事実その後で、イエス・キリストが、父なる神に必死で祈られました、十字架を取り除いてください、と。しかし父なる神は、無言、沈黙を通し、そして、イエス様はその父なる神の無言、沈黙で、十字架に向かう区切りをお付けになったのです。
私たちもまた、神様の前に、何が大事かということを考えて歩みたいと思います。
聖書の言葉。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マタイ16:24)。
それではまた来週お会いしたいと思います。御機嫌よう。さようなら。