2016年8月7日(日) 笑いをお与えになる神
おはようございます。松山教会の久保浩文です。
辛い時、悲しい時、苦しい時、私たちは泣きます。涙を流す時もあれば、心の奥底で声にならない叫びをあげる時もあります。反対にうれしいことがあると、自ずと笑みがこぼれ、笑い声となって表れることもあります。
聖書には、神が、私たち人間を含めて、すべての生き物、被造物を創造されたと記されています。被造物の中で「笑う」ことができるのは人間だけであるといわれています。笑いは、人間の免疫力を高めるとも言われ、その大切さが認識されてきています。また、心からの笑いは周囲にもよい影響を与えます。しかし中には、心の痛みを隠すための無理な笑いもあれば、あきらめや、軽蔑をあらわす笑いもあります。
聖書に、アブラハムとサラという仲睦まじい夫婦が出てきます。彼らは、神様を信じ、神様の言葉に従いつつ生きている、とても敬虔で模範的な夫婦でした。彼らには子供がいませんでした。神様はアブラハムに、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」と言われました(創13:16)。
アブラハムは、神様の言葉を信じて待ちました。しかし、いつまで経っても神様は彼らに子供を与えて下さいません。気が付くとアブラハムは、99歳になっていました。
神様は再びアブラハムに現れて、「あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」と約束されました(創17:8)。
ですが、この時のアブラハムは、神様の前にひれ伏しつつ、ひそかに笑って「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか」と言いました(創17:17)。アブラハムにしてみれば、既に自分の体は衰えており、妻サラも、子を宿せない年齢となっていて、常識や理性では、とうてい信じることのできない約束だったのです。
神様の前にひれ伏しつつも、彼の笑いは不信仰な、心の中の軽蔑の笑いでした。
それはサラも同じでした。彼女もまた、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし」と笑いました(創18:12)。
しかし、真実な神様は、約束されたとおりサラを顧み、彼女は身ごもって、年老いたアブラハムとの間に、男の子を産みました。神様はアブラハムに、この子供を「イサク」と名付けるように言われました。「イサク」とは、「彼は笑う」という意味です。
アブラハムは不可能を可能とされる神様を改めて信じ、この神様のユーモアあふれる命名に、かつての自分の不信仰による「笑い」を戒めました。
サラは、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」と自らの気持ちを表しました。
神様は彼らの不信仰とあきらめの笑いを、心からの感謝と喜びの笑いへと変えて下さったのです。
神様は、私たち人間の不信仰、不敬虔にもかかわらず、恵みをお与えになることを惜しまれない方です。神様の約束を信じて生きることは、時として忍耐を強いられ、様々なことに心を痛め、悩み、涙を流さなければならないこともあります。
しかし最後には、神様は私たちの目の涙をぬぐいとって下さるだけでなく、神様と共にある喜び、笑いを与えて下さるのです。