2016年6月26日(日) 安心しなさい。わたしだ。
おはようございます。岡本惠です。
私たちがいつも、心の中で願っていることの一つは、安心する、ということではないかと思いますね。
小学校の三年生までの私は、あまり友だちがいませんでした。でも一人、小学校の前の家に住んでいた男の子が、友だちになってくれました。学校の授業が終わって家に帰る前には、ほとんど毎日、その子の家に立ち寄っていました。一緒に本を読んだり、ボードゲームをしたりしました。一緒に外に出かけて遊ぶということはしませんでしたが、その子の家にいると、心が落ち着きました。しばらく遊ぶと、「じゃあ、また明日ね」と言ってから、自分の家に帰りました。
しかし、2時か3時には、家に帰っても、まだ誰もいませんでした。私の家は農家でしたから、家族がそろって畑仕事に出かけていたのです。ですから、家に帰る時間になると、もうちょっと一緒に遊んでいたいなあ、と思っていました。
けれどもある日、突然、その子がどこかに引っ越すことになったのです。なぜ引っ越すことになったのか、今は思い出せません。お父さんが転勤でどこか別の町に行くことになったのかもしれません。あるいは、新しく家を建てることになって、別の土地に移ることにしたのかもしれません。
しかし、その子の家族がどこかへ引っ越しても、家だけは残っていました。きっと貸家だったのだろう、と思います。けれども学校から帰る時には、必ず、その家で友だちと遊んだことが思い出されるのです。あんなこともしたなあ、こんなこともあったなあ。あの子のお母さんが、温かいお茶を出してくれたり、冷たいジュースをガラスのコップで出してくれたりしたこともあったなあ、と思い出すんですね。
あんなに仲良く遊んでもらったのに、今はあの子はいないんだなあ、と思うと、悲しくなりました。誰かが友だちになってくれている。その子と一緒にいると安心する。そのような友だちは本当に大切なのだと思います。思ったことをそのまま言うことができる。だけど喧嘩はしない。お互いがお互いをそのまま受け入れている。そのような時に、私たちはとても安心するのではないでしょうか。
聖書のマタイによる福音書の14章27節には、このように書かれています。
「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」
これは、お弟子さんたちに語られた言葉です。
いつ、イエス様は、このように語られたのでしょうか。それは、お弟子さんたちだけが舟で湖を渡り、向こう岸に行こうとしていた時のことです。すると、激しい風が山から吹き降ろして来たんですね。漁師であったお弟子さんたちは、嵐の中で何とか舟を前へ進ませようとしていました。けれども少しも前へ進むことができません。
その時、イエス様が弟子たちに近づいて来られたのですね。その姿を見た時、弟子たちは「幽霊だ」と叫んだのです。しかし、イエス様はすぐに話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
わたしだ、という言葉は、わたしはまことの神だ、ということを表わす言い方です。この呼びかけを聞いた時に、弟子たちの心は、安らかになったんですね。
私たちも、生きていく間に、さまざまなことを体験します。その時に、誰かが、「大丈夫だよ。あなたと一緒にいるよ」と語ってくれたら、どれほど安心することでしょうか。
今日、神であられるイエス様が、「安心しなさい。わたしは神である」とあなたに語っていてくださいます。ですから、恐れることはありません。神であるイエス様が、あなたを見放されることは決してありません。生涯あなたと一緒に歩いてくださるのです。