2016年6月5日(日) 心の貧しい人々は幸いです

 おはようございます。岡本惠です。
 幸いという言葉は、本当に私たちの心に訴える力があります。

 わたしがキリストの教えに最初に触れたのは、小学校四年生でした。当時、世界の偉大な人びとの伝記が、シリーズとして書店に並んでいました。その中の1冊が「イエス・キリスト」というタイトルの本でした。
 夏休みか冬休みに、親戚に行った帰りだったと思います。一度は、駅の近くにあった本屋さんに入る、ということが習慣のようになっていました。
 まず「小学四年生」という附録付の本を買いました。そして、他にどんな本があるかなあ、と探していたんですね。すると本棚に、「イエス・キリスト」というタイトルの本を見つけたのです。

 わたしの家族は、仏教徒でした。そしてわたしも、仏壇に手を合わせていました。しかし、なぜかしら、「イエス・キリスト」という名前が目に入りました時に、どうしてもその本が読みたい、と思ったのです。母親がなぜ許してくれたのか、今も分かりません。
 けれども、家に帰ってから、読み出しますと止まりませんでした。とにかく、一気に読んでしまわなければ、気持ちが落ち着かなかったのです。

 そして、その中にある一つの言葉に目が留まりました。それは、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉でした。
 深い意味は分かりませんでした。しかし、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉は、子供ごころにも、引き付けられる魅力があったのです。
 今でも不思議ですが、心の貧しいということが、貧相だ、というような感じには受け止められなかったのです。もし、そのように受け止めていたとすれば、そんなことはない、という思いでいっぱいになったと思うんですね。けれども、そうは思わなかったのです。その時、神がわたしの心を捕えてくださった、ということかもしれません。いえ、その通りだ、と思うのです。

 イエス様が、この言葉をお語りになりましたのは、山の上でした。そこから見下ろすと、青々としたガリラヤ湖が、サファイアのように輝いています。そして、周りには春のさまざまな花が咲き、青草が絨毯のように見えます。その中でイエス様はお語りになりました。
 イエス様の所に集まって来た群衆も、そして弟子たちも、イエス様の口から語られる言葉に心を満たされながら、聞き入ったのだ、と思います。

 イエス様は、七つの幸いについて教えられました。その中の最初の教えが、私の心をとらえた言葉でした。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
 心の貧しい人々とは、どのような人々なのでしょうか。それは、心が貧相である、という意味ではありません。もしそうであるなら、幸いということはできないでしょう。
 この貧しさというのは、私たちが神の前に立つ時の、心のあり方のことなのです。私はいったい、どのような価値があるのか。そのことを常に問い続ける心のあり方なんですね。
 神の前には何も誇るものはない。私が手にしているものはすべて、神から与えていただいたものだ。そのことを知っている心、それが貧しい心なのです。

 自分のものは何もない。その意味では、私は貧しいのです。しかし、このような私に、キリストは大きなプレゼントを約束しておられるのです。その約束とは「天の国はその人のものである」という約束です。天の国、天国とは、神が与えてくださる幸いが満ちあふれているところです。そして、キリストが私と共にいてくださるところです。

 キリストは、あなたにも、語っておられます。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
 神の前に、心の貧しさを願う時、あなたは、天の約束が確かなものであることを実感されるに違いありません。