2016年4月10日(日) 私は神の作品
おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。
年度が改まってから早くも1週間がたちました。お元気にお過ごしでしょうか。今朝もご一緒に聖書の御言葉に聴きたいと思います。
数年前になりますが、あるイベントに立ち並ぶ出店の中に、陶芸のコーナーがありました。そこでは実際に、陶器を作る職人さんが陶器を作っていました。
一見、何の役にも立たないような粘土の塊を取って、「ろくろ」でブーンと回しながら指で形作ると、それが何とも美しい線を描いてゆき、壺になったり、茶碗になったり、湯飲みになったりしました。その陶器師は、思いのままに、どんな器でも造れるかのようでした。陶器師が長年かけて培った技術を駆使して丹念に作ると、今まで何の価値もない全く役に立たなかった土くれが、素晴らしい芸術作品に作り変えられるのです。これはまさに芸術でした。
聖書は、これと同じように、私たち人間は、陶器師であられる神によって造られた、土の器のような存在であると教えています。
イザヤ書64章8節の御言葉です。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(新改訳第3版)
この御言葉に思いを巡らすとき、少なくとも二つの大切なことを悟ることができます。
一つ目は、私たち一人ひとりは、神の手作り品であるということです。
今朝の御言葉に、「私たちはみな、あなたの手で造られたものです」とあります。工場での大量生産ではないのです。もし、大量生産された器だとしたら、私たちはどのような姿になっているでしょう。そうです。私たちは全員、完全に同じになっているはずです。大量生産の場合は、100個作ったうち、2個でも規格外のものが出来てしまうと、出荷先から文句を言われてしまうそうです。もしかしたら、1個でも文句を言われるかもしれません。他の99個と違うものを「不良品」と呼んで、悪いものとしてしまいます。工場生産の場合は、完全に同一のものを生産しなければなりません。
もし私たちが、全員同じ姿、同じ性格、同じ経験をするように作られていたらどうでしょう。アイデンティティは完全に無くなってしまいます。
私たちは、誰もが全く同じように大量生産された「製品」とは違うのです。陶器師が1回1回、一人ひとり、手作りで丹念に作ってくれた特別な「作品」なのです。ですからあなたの生まれ持った容姿や性格は、自分でそのようになったのではなく、神がそのように造ってくださったのです。神が一人ひとりをユニークに造ってくださり、人生を歩ませてくださっているのです。
ですから、少しいびつでも良いのです。性格や好みや才能などが人と違っていても良いのです。他の人にはできない、自分だけに任される働きというものがあるのです。
「陶器師なる神が私をこのように造って下さったのだ。」そのように理解するとき、人は、土の器として、特別のアイデンティティを持つことができます。自分を恥じることもなくなります。
二つ目は、陶器師なる神が粘土の私たちを練って、丹精込めて作ってくださったのには、必ず目的があるということです。
陶器とされた私たちには、「機能」そして「用途」が与えられています。それは、たとえ自覚できなかったとしても、神が計画しておられるはずです。あなたには、必ずこの世における「用途」が与えられているのです。あなたはいったい何者なのでしょう。あなたは、どのような用途のために陶器師なる神から造られたのでしょう。
私たちは、自分自身を正しく知るために、まず陶器師なる神を知らなければなりません。そして、神が私たちをどのような存在として見ておられるのかを知らなければなりません。
今朝あなたにぜひ知っていただきたいことは、神が私たちの造り主であられ、私たちは作られたものであるということです。私たちは神の作品なのです。
あなたがもし、自分が何のために生まれてきたのか疑問に思うのでしたら、ぜひあなたをお造りになった神に、祈りをもって聴いてみてください。きっと素晴らしいアイデンティティと役割が見つかるはずです。