2016年4月3日(日) いかに幸いなことか
おはようございます。高知市上町4丁目にあります、高知教会の小澤寿輔です。
4月といえば、入学式、新学期、就職、転勤などの季節でもありますね。正月とはまた違った意味で、気持ちを新たにして再出発をする、そのような希望が溢れる時期ではないでしょうか。気持ちが新たにされるこの時期、幸せを求めてみませんか。
実は、聖書は「こういう人は幸いである」と教えているのです。「え?あの堅い聖書に?」と思った方、意外ですよね。けれども本当なのです。
ただ、聖書は「幸せ」を「幸い」と呼んでいます。この「幸い」という言葉は、世間でいう「幸せ」とは少し違います。「幸せ」とは、英語で「ハッピネス」といいますね。これは「ハプニング」つまり「偶発的な出来事」によって左右されます。けれども、聖書が言う「幸い」は、英語で「ブレッシング」(祝福)と言います。これは「偶発的な出来事によって左右されない幸福」です。お金を失う、健康を失う、物事がうまく行かない、人間関係がめちゃくちゃ、こういう人生の荒波が襲っても、微動だにしない「幸福」なのです。
それでは、聖書はどういう人を「幸い」だと言っているのでしょうか。
旧約聖書の詩編第1編の1節、一番初めのところに、「いかに幸いなことか」とあります。これは、神を信じる人の心に与えられる幸い、祝福です。いつでも、どこにいても受けることのできる祝福です。
それでは、どういう人がその幸い、祝福を受けられるのでしょう。その次の2節に「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。
「主の教え」とは、「神の御言葉」を指します。つまり、「聖書」です。聖書には、私たちが生きる上で必要な、神の口から出る言葉、教えが記録されています。この神の言葉である聖書を、喜びとして、昼も夜も黙想し、自分の心の中心にまで至らせようとする人は、「いかに幸いなことか」と言っています。
スルメイカを食べたことがありますよね。スルメイカを食べるとき、じっくりと噛み締めるとジワ〜っと旨味が出てきますよね。それに似て、じっくりと噛み締めるようにして聖書の御言葉を黙想する人は、幸福を味わうことができます。
どのような幸福でしょう。同じ詩編には「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とあります。
「流れのほとり」に植わった木。ちょっとこれを想像してみてください。水路に向けて根をしっかりと張りめぐらし、いっぱいに水分と栄養分を吸い上げて、いつも満ち足りています。葉はいつも青々と生い茂っています。また、良い実を結びます。きっとみずみずしい、美味しい実でしょう。なんと力強い、生命力のある姿でしょう。
今日、この放送を聴いておられるあなた。ぜひ神の口から出る言葉、聖書に耳を傾けてみてください。いちどきに沢山読む必要はありません。毎日少しずつで結構です。まず、試しに1年、続けて読んでみてください。あなたは神の祝福を受け、大きく変えられていくのを実感することでしょう。
今までは自分中心、自分勝手に生きていたのが、聖書を読むことによって、何が神に喜ばれることなのかを少しずつ知ることができるようになります。そして、それを行えるようになれば、神が喜んでくださり、祝福してくださるので、することがすべて栄えるようになります。
天と地とすべてのものを造られた全能の神に注目され、喜んでいただけたら、いかに幸いなことでしょう。