2016年3月13日(日) 共にいてくださるお方

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 聖書の神さまってどんなお方ですか。その質問にいったいどんな答えが返ってくるのでしょうか。私自身も興味津々です。
 正義の神、怒りの神、聖なる神、愛に満ちた神。いろいろな答えが返ってくるに違いありません。その答えの一つ一つは、その人が今まで築いてきた神さまとの関係をあらわしているように思います。そして実際には、とても一言では言い表すことができない、というのが、答える人の正直な気持ちだと思います。

 では、聖書は神ご自身について、どう語っているのでしょうか。これもまた、とても一言では表現しきれません。けれども、あえて一言でいえば、ヨハネがその手紙の中で語っているように「神は愛である」ということに尽きると思います。

 ただ、愛といっても、愛は決して抽象的な概念ではありません。あるいは、つかみどころのない感情でもありません。具体的な事柄の中に現れるものです。
 聖書の中に出てくる「共にいる」という約束の中に、神の愛はもっともよく表れています。もちろん、言葉で語っているというばかりではなく、その約束を守ってくださることの中に、神の愛が現れています。

 確かに、聖書の神は、罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放したお方ですが、しかし、もしそこですべてが終わっているのであれば、聖書は最初の数ページで完結してしまうはずです。しかし実際には、追放したこの二人に対する神の愛は、終わってしまうどころか、救いの完成に至るまで、この二人から生まれ出る子孫にまで及んでいます。その神の愛の壮大な物語が、聖書に記された歴史です。

 この聖書の中にはキーワードのように「共にいる」という神の約束が繰り返し出てきます。共にいてくださる神は、ついにはイエス・キリストを通して、わたしたちのただ中にまで、やってこられました。インマヌエル…神は我々と共におられる…この名こそ、イエス・キリストに与えられた名前でした。

 そのイエス・キリストは、地上での生涯を通して、特に人々から見捨てられた者たちや、苦しみの中にある人たちと共に歩まれました。死から復活して、父なる神の身許にお帰りになるときも、なお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました(マタイ28:20)。

 新約聖書の中に収められた手紙の中で、使徒パウロはこう述べました。
 「…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)。

 この共にいてくださる神こそ、聖書が示している愛である神の姿です。この神の愛からわたしたちを引き離すものは何もありません。苦しみも悲しみも、神とわたしたちを引き離すことはできません。
 そんなの嘘だ、と思われるかもしれません。しかし、神はそう思うわたしたちと共に歩んで、その愛を貫いてくださいます。

 教会に集う一人一人がそのことを体験した証人です。どうぞ、お近くの教会へ足を運んでみてください。