2016年2月7日(日) 逆縁

 おはようございます。清和女子中高等学校、宗教主任の中山仰です。
 俳句をかじり初めて、逆縁という言葉に出会いました。辞書でこの言葉を引くと、仏法思想や仏教の教えに反すること、または年長者が年少者の墓を拝むこと、などという意味が載っていました。一般には後者の意味で遣われることが多いようです。

 ところで聖書の授業の時に、生徒たちに逆縁という言葉の意味を説明してから、「最大の親不孝は何ですか」と質問してみました。中に一人くらい「親より先に死ぬこと」という答えがあってほっとしました。「その通り」。では、「なぜ親より先に死んでは親不孝なのですか」と質問します。一瞬言葉につまるようです。中には、いずれ親子のどちらも死ぬのだから、特に親不孝と思わないなどという答えも返ってきて驚かされます。

 どの親御さんも、子どもが重い病気や怪我をしたときに、その子と代われるものならば替わってやりたいと思う経験をしていることを彼女たちに説明します。「なぜ親より先に死ぬことは親不孝なのか」という問いの明確な答えはないかもしれません。
 私の考えは、二点あって、その一点は愛する子どもを自分の生きている内に死なせたくない親の本能みたいなものです。
 もう一点は、自分の子どもたちだけでなく若い人たちが先に死んで行く時に、未来への希望が絶たれる理不尽さ、悲しさを覚えるからです。特に自分の子どもの夢を叶えさせてあげたい痛切な気持ちが途切れることのショックがあると思う、と答えています。
 その他にも、もっといろいろな理由があるのだと思いますが、その辺のことについて議論してみるのも面白いかもしれませんね。授業中にいろいろな答えが返ってくることは楽しいことです。

 このことについては、父なる神と子である私たちとの関係に置き換えて考えてみたら、見えてくるものがあるのではないかと思われます。

 幼くして子どもが召される場合、私たちには意味が分かりませんが、神のご計画の中のことと思われます。人の生死の年代は様々です。
 しかし、最大の親不孝は自ら命を断つことでなくて何でしょうか。与えられている命を自ら絶ったら、これは親や周りの残されている者にとっては絶えられないことです。
 女優の淡路恵子さんは二人の息子さんのうち、ご長男を交通事故で亡くし、ご次男を自殺で失っています。晩年になっても「次男のことだけは許せない」と言っておられました。

 全国には「自死の会」というサークルがあります。自殺によって先立たれて遺された方々が互いに寄り添い、思いをはき出す場所です。そうでもしないと、とても辛くて生きていけないから共に寄り添いながら、辛い経験を共有し合って心を落ち着けるのではないかと思います。

 生徒たちに訴えたいことは、どんなことがあっても絶対に死んではならない。自らの命を奪うことはもってのほか、ということを力説しています。
 創造者である神は、私たちに命を与えてくださいました。もし私たちがその命を粗末にするならば、どうでしょうか。
 しかも自死という恐ろしい手段で命を放棄する形は、どんな理由があるにせよ、それは神の前に許されることではないと思います。それは命の神への挑戦となるからです。神の愛への裏返しでしょう。

 イエス・キリストの十字架の死は、自殺行為に近いと言った人がいます。そのように見えるかもしれませんね。
 わざわざ殺されることを承知で、逃げることは父のみ旨でないと祈りのうちに受け止めたとはいえ、捉えられるためにエルサレムへ赴いているからです。

 無実である方が、何の罪状もないまま身代わりの極刑につかれました。父なる神は、そのことを知って放っておかれました。天の軍勢を遣わして御子イエス・キリストの十字架を阻止することぐらい、訳もないことだったでしょう。
 しかしそれは父の御旨ではありませんでした。もし御子イエスが十字架を回避されたら、私たち罪人が誰一人救われないことになってしまいます。
 神は、神に敵対している私たちを救うために、御子を地上に送ってくださったのです。これこそ計り知ることのできない、神のご計画であり、究極の愛です。

 このことを知った時に、自らの生き方に関して、本能的に守るということ以上に、慎重にならざるを得ません。私を愛して止まない家族や友人だけでなく、まず先に私を愛し、造り、この世に送り出してくださった父なる神がおられるということを深く受け止めることです。
 それを知った時に、私は自分だけで生きているのではないと思わされました。
 どんなに苦しい時にも父なる神が、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてまでも私を愛してくださっているということを心から受け止めて行きたいと思いました。

 聖書には、力強い言葉がたくさんあります。その一つは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉です(ヨハネ3章16節)。

 この言葉の意味が自分に向けられていると感じた時、人生に大きな積極的な目的を見出すようになりました。
 私ごとですが、高校生時代に勉強の目的を見失い、いい加減な学生生活をしていたことを深く反省しています。もう少し早く気がつけば、もっと違った人生になったのかなと思う時もあります。でも、気がついた時が、神の時です。そこから私なりに頑張って、学び直し、一所懸命仕事をしました。またある時に、牧師としての召命を受けて神学校へ進み牧師にさせていただき、今日に至ります。

 みなさんも、イエス・キリストと出会い、悔いのない人生を送られませんか。