2015年11月8日(日) 悲しみに沈まないために
おはようございます。山田教会の牧田吉和です。さわやかにお目覚めでしょうか。今朝も聖書の言葉をあなたの心にお届けしたいと思います。
今からもう45年も前のことです。わたくしが牧師になってほやほやの頃、いまでも冷や汗が出るような失敗をしたことがあります。新米牧師のわたくしは、教会の役員のある方のお母さんの死に出会い、生まれてはじめて、葬儀の責任を引き受けました。はじめてのことで極度に緊張していたのでしょう。 弔電の紹介のところで、「祝電を紹介致します」と言ってしまったのです。本当にいたたまれない気持ちになってしまいました。しかし、葬儀が終ってから、そのお母さんを亡くされた役員の方が、「先生、祝電でいいんですよ。私の母は天国に凱旋したのですから」といって慰め励ましてくださいました。
その言葉を、45年たった今も、忘れることが出来ません。それは、キリストの死の意味を見事に言い表した言葉でもありました。
わたしたち日本人にとって「死」と言うものは、動かしがたくどうにもならないものという前提があります。日本人の好む“もののあわれ”とか、“無常感”の背後には、人間はやがて死ぬもの、それは動かしがたいものという日本人の根本的な考え方、宿命的な考え方が隠されているのではないでしょうか。それは、どうすることもできないものだけに、愛するものを死によって失った場合にも、どん底の悲しみ、どんなものも、その悲しみをいやすことのできないものになってしまいます。従って、葬儀も悲しみに満ちて、しめやかに行われねばならず、そこには希望の光はありません。
聖書は、この点で全く異なっています。今お読みしました聖書の個所で、「眠りについた人たち」のことについて語っています。「眠りについた人たち」とは「イエス ・ キリストを信じて死んだ人々」のことを意味しています。聖書は、その人たちの死について、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないため」と言っています。死んだらもうおしまい、もうどうすることも出来ないかのように、悲しみに沈み込んではならないと、言っているのです。ちょうどわたしたち日本人のように、死とはどうにもならないことだと思い、絶望してはならない、と力強く言い切っているのです。
なぜ、聖書はそのように断言できるのでしょうか。それは、あなたがたが一つのことを知っているからだと言っています。その一つのことについて、聖書は次のように言いました。「ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。イエス ・ キリストを信じる者にとって、死とはどうにもならないもの、最後のものでは決してありません。そうではなく、イエス・キリストが十字架にかかり、死んでよみがえられたように、やがてイエス・キリストを信じて墓に眠るものも、その墓から連れ出され、必ずよみがえらされるのです。
ここに、キリスト者がこの地上の歩みを喜びの中で歩み、愛する者との別れにおいてさえ、悲しみに沈みこまない理由があります。ここにキリスト者の葬儀が、悲しみ以上に、深い慰めと希望の光をたたえ、力強い賛美歌が歌われる理由があります。そしてここに、「先生、祝電でいいのです」と言ってくださる理由があるのです。
新約聖書ヨハネによる福音書11章25-26節には次のような言葉があります。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』