2015年9月13日(日) 天のふるさとを思う
皆さん、ご機嫌いかがですか?私は高知県下でただ一つのミッションスクール、清和女子中・高等学校で校長をしています、黒田朔と申します。ハワイで28年間牧師をして、今ここで働いています。
そんな中で、故郷(ふるさと)、ということを考えます。ふるさと…。聞くだけでなんだかほのぼのする不思議なことばです。あなたの故郷はどこですか。
最近、わたしのふるさとってどこだろうと想います。念のため、ふるさとの意味を調べてみますと「自分の生まれ育った地」とありました。それなら、私が生まれたところは、今は北九州市、昔は若松と言ったそうですが、生まれただけで何一つ記憶がありません。そこで、ハワイへ引っ越す前に、自分が生まれたところを見ておきたいと父に頼むと、父は自分の歩みを息子と共に辿るのが嬉しかったんでしょう。大阪から福岡まで、車で走ってくれました。もう35年も前のことです。走ってくれた父も今はもう亡くなっていませんが、もっと残念なことは、若松にある筈の我が家は、あまりの変わりように見つけることはできませんでした。と言うわけで、若松はふるさとらしさをもって私の心に響きません。
故郷…。ふるさとを思いながら、今、ここ高知に住むことになるまで、物心付いてから住んだところを辿ってみますと、幼稚園時代の子どもながらにも、空襲やB29に向けて撃たれた高射砲が、届かないで空中で炸裂していた様子など、あるいは食べ物の無かった忘れられない戦争の記憶と共に残っていた、大阪の堺。
次に、敗戦後シンガポールから引き揚げてきた父の決断で開拓農家として入植し、小学校2年生から結婚までの時を過ごした大阪の泉南。
第三は、脱サラをし、駆け出し牧師となって13年。家族が7人になるまでお世話になった岸和田。
そして第四は、思いもしなかった海外生活の為に、家族全員で引っ越しをし、気が付くと29年も暮らした、ハワイの、高知城をかたどり建てられたマキキ教会。ホノルルの町です。
そして今、第五が、ここ、その高知城が取り持つ縁で、住むことになった、本物の高知城のある高知、であります。そこで4年目を迎えています。
どこも夫々の思い出が詰まった町々ですが、ハワイに住んでいた頃、コンサートなどで日本からのゲストが「最後に皆さんと一緒に何か歌いましょうか」、と言うとリクエストが出るのが、必ずのように「ふるさと」でした。海外で歌う「ふるさと」には特別の情感がこもり、歌うひとりひとりは「我がふるさと」をそれぞれ心に描いて歌い、感激します。
私の心のスクリーンには、小学生のころ走り回った野山、泳いだ海や、山あいの池が浮かんできました。そして、場面が変わって、ここの高知でふるさとを思うと、ハワイの海が思い浮かべ、あるいは青空に枝を揺らせるやしの木々、いや、それ以上に、共に歩んだ人達が思い出されます。
そしてその多くが、ハワイを離れて、ここ3年ほどの間に亡くなってしまいました。
この半年を振り返っても、25年間、ラジオ番組「心に光を」を共に続けた北村アナウンサー。真面目一本で、この人に…とこう思うと、バスの中でも、スーパーでもトラクトを手渡し、証しを始めた澄江さん。「先生、疲れたでしょ。おいしいもの食べに行きましょ」と気前よく誘ってくれた中山さん。教会には時々しか顔を出さなくても、お花のことならどんな無理でもきいてくださった「花の宴」(花屋)の千里さん…。そんな風に、沢山の人が心に浮かびます。
聖書にはふるさとについて、「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(新改訳・新約聖書へブル11:16)と書かれています。
このように懐かしい先輩たちが移り住む天国の懐かしさが、いよいよ強くなってくる頃、天国は若松や堺、あるいはハワイよりも、もっともっと懐かしいところになり、やがて早く訪ねたい、と思うような場所になっていくんじゃないかなと思います。
そして、死というのは、憧れの天のふるさとへ訪問の旅立ちとなるのかもしれません。
私は旧約聖書の死の表現が好きなんですね。創世記の25章8節にこうあります。
「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」
このときを迎えるまで、私達にはすばらしい、天国の故郷があるのですから、そのゴールを目指して、心を込め、精一杯走りぬきたいと思います。
それでは皆さん、この次まで、御機嫌よう、さようなら。