2015年8月30日(日) 霊の体への復活
おはようございます。新居浜教会の西田三郎です。
聖書には次のような言葉があります。
「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(1コリント15章44節)
この聖書の言葉は、死んだ人の復活について語ったパウロの言葉の一節です。ここでは「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と言われています。蒔かれた種が土の中で朽ち果てた後、別の体である新芽が生えてくると、種の発芽がたとえに用いられています。
「自然の命の体」とは、今わたしたちが生きている地上の体です。わたしたちの「自然の命の体」は、「朽ちる、卑しい、弱い体」です。死に定められた体です。この体が種のように地上に蒔かれて朽ち果てるとき、新芽が出るように、神様は私たちを「霊の体」に復活させてくださいます。
パウロが言う「自然の命の体」がどのようなものか、私たちはよく分かっています。では「霊の体」とはどのような体でしょうか。これは私たちの理解を越えています。復活されたキリストの他は、だれも「霊の体」を経験したことがありません。それを説明する言葉がありません。パウロも「霊の体」と言うだけで、それ以上のことは何も言っていません。
では、まったくなにも言っていないかというとそうではありません。パウロにはこういう言葉があります。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(1テサロニケ4章14節)。
この言葉から「霊の体」について言えるとすれば、それは「イエスが復活されたような」ということです。「霊の体」とは、「イエスが復活されたような霊の体」と言うことができると思います。
私たちにはこの「イエスが復活されたような霊の体」が約束されています。キリストは私たちが「霊の体」に復活させられるために、十字架に死んでくだり、三日目に復活してくださいました。そして、神の霊はその約束の保証として、今私たちに与えられています。
私たちが地上の生涯を終えるとき、私たちはキリストと共に生きるという死後の世界に生きることになります。そして、世の終わりには、地上の体のような「朽ちる、卑しい、弱い体」ではなく、「朽ちない、輝かしい、力強い」霊の体に復活させられます。この復活の希望が私たちの救いです。
ですから、神様が私たちを復活させてくださる「霊の体」は、死んだ人が生き返る蘇生ではありません。また、私たちの今の体である「自然の命の体」がそのまま復活するのでもありません。
パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(1コリント15章50節)と語りました。
この言葉の「肉と血」とは、私たちの今の自然の命の体のことです。「肉と血」は神の国を受け継ぐことも、朽ちない「霊の体」を受け継ぐこともできないのです。
神様は世の終わりの時のために、まったく新しい「霊の体」を私たちのために用意していてくださいます。それが霊の体への復活です。