2015年8月23日(日) 死ぬはずの体の復活
おはようございます。新居浜教会の西田三郎です。
聖書には次のような言葉があります。
「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8章11節)
昨年の12月に兵庫県から新居浜教会に転勤してきました。新居浜に来て、いくつか驚いたことがあります。その一つが町内会の放送でお葬式の案内があることです。この前は、朝の7時と夕方の5時の2回、放送がありました。私はその放送に驚きながらも、ぼんやりと亡くなった方のことを考えておりました。
私も数年前に現役世代でなくなり、前期高齢者となりました。幸い、健康に恵まれて生かされていますが、それでも体力の衰えを感じることがあります。こちらの新聞には毎日、各市の訃報が掲載されておりますが、同世代の人たちの訃報を読むごとに、自分の死を考えることが多くなりました。
ではキリスト教は人の死をどのように語っているのでしょうか。最初にご紹介した聖書の言葉に「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」という言葉があります。ここでは私たちの体は「死ぬはずの体」と言われています。「死ぬはず」は「死ぬべき」という言葉です。私たちの体は死ぬことになっているのです。
また、パウロには「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章24節)という言葉もあります。そこでは体は「死に定められた体」とあります。これは「死の体」という言葉です。なんという冷く厳しい現実的な言葉でしょうか。これが私たちの体です。私たちの体は、だれもが生理的な理由だけでなく、罪の結果としての死を経験しなればなりません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とパウロは叫んでいますが、この叫びはパウロ個人の叫びを越えて、全ての人間の叫びです。
しかし、そのように叫んだパウロはここで、「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と語りました。「生かしてくださる」と「復活させる」は同じ意味の言葉です。
ですから、神様が死に定められている私たちの体を復活させてくださるのです。
この体の復活は今、すぐに起こることではありません。これは私たちの死後の世界のそのあとに来る、世の終りの時の体の復活です。私たちが死ぬとき、私たちは、パウロが「この世を去って、キリストと共にいたい」と熱望した死後の世界に行きます。しかし、この死後の世界で私たちの救いが完成するのではありません。死後の世界のその後の世の終わりの時に、私たちの体はキリストが霊の体に復活されたと同じような霊の体に、復活させられます。この霊の体への復活が、神様が私たちに与えてくださる救いの完成です。
私たちは今はまだ、死の体で生きています。しかし、キリストにある人には、この死の体の中にも希望があります。それは死を越える希望です。
今朝、ラジオをお聞きの皆さまにも、このような体の復活の希望に生きていただきたいと願います。