2015年6月28日(日) 主イエスと出会った人々〜トマスの場合

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。

 トーマスという名前は英語圏ではありふれた名前です。言うまでもありませんが、それは聖書に由来する男の子の名前です。子どもたちならイギリスのアニメ「きかんしゃトーマス」を知らない子はいないでしょう。人物伝の好きな人なら、トーマスといえばトーマス・エジソンやトーマス・ジェファソンの名前を思い浮かべるかもしれません。最近ではフランスの経済学者ピケティもトマスという名前です。ついでに言えば、「トムとジェリー」の「トム」とは「トーマス」の愛称です。

 さて、聖書にトマスの名前が出てくるのは、イエス・キリストの十二弟子の一人として、弟子のリストに名前が加えられています。実際、最初の三つの福音書には、かろうじて名前が記されているだけです。どこのだれで、どんな人物なのかさっぱりわかりません。しかし、ヨハネによる福音書を読むと、もう少しこの人についての面白い情報が得られます。

 ヨハネ福音書の中では、「ディディモと呼ばれるトマス」として、11章に初登場します。ディディモとはギリシア語で「双子」を意味する言葉で、実は「トマス」という名前もアラム語では「双子」を意味する名前です。その名前の由来よりももっと興味を覚えるのは、そこに記されているトマスの最初の発言です。

 このヨハネ福音書の中で初めて登場する場面で初めて発言するトマスの言葉は、何と「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」というものでした(ヨハネ11:16)。他の弟子たちがユダヤに向かおうとするキリストを、身に迫る危険のために思いとどまらせようとしているのとは大違いです。それは勇ましいとも取れますが、また無鉄砲で向う見ずな発言とも取れます。もしかしたら、この先がもうないことを思いつめた、悲観主義者だったのかもしれません。

 このトマスが有名になったのは、キリストの復活のときでした。この時の出来事のために、トマスは「疑い深いトマス」という不名誉なあだ名を後の時代の人々からもらいます。懐疑主義者のように扱われ、少々気の毒な話です。その時の次第はこうでした。

 実はキリストが復活されて、他の弟子たちに姿を現したとき、トマスだけがその場に居合わせなかったのです。それで、復活のキリストに出会って嬉々としている他の弟子たちに、水を差さんばかりにこういいました。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に差し入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)

 確かに疑い深いといえばそうかもしれません。しかし、見方を変えれば、自分の目で確かめるまで信じないという慎重な信仰と言えるかもしれません。ネットに流れる情報を鵜呑みにしてしまう今の世相よりも、ずっと堅実かもしれません。
 しかし、それでもキリストはそのトマスに言います。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

 確かに聖書は証拠のないものを信ぜよとは求めません。しかし、証言によってしか証拠を語り継げない出来事はいくらでもあります。今の時代のわたしたちにとって、イエス・キリストの教えと御業がまさにそうです。

 ところで、このトマスは結局どうなったのでしょうか。このキリストの促しに応えるように、トマスは言いました。
 「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)
 これがイエス・キリストに対する言葉であるとするなら、これほどまでにはっきりとイエスを主であり神であるとする信仰は、これまで他のどの弟子たちの口からも出ませんでした。