2015年6月14日(日) 祈りについて
おはようございます。高知教会の松本幸一です。
私たちクリスチャンにとって、祈りは大切なことです。聞き届けられる祈りとそうでない祈りがあるのではありません。実現する祈りと実現しない祈りとに分けて考えた方が良いのではないかと思います。
神様の心にかなった祈りが実現するのであって、人のわがままな祈りが実現したら大変ではないでしょうか。しかし、この祈りは聞き届けられる、聞き届けられない、と、人ははっきり判断できないし、区別していいのものではないでしょう。ただクリスチャンはよく考えて正直な気持ちを祈りによって神様に聞いていただくことだと思います。
霊的な分野についてはあまりよくわかりません。目には見えないからです。しかし、私たちは風は見えないけれども木々のそよぎや、体に当たる実感でそれを信じています。霊についても、私たちの心の構造を考えればよくわかるのではないかと思います。心は目に見える物ではありません。物ではない存在、それが心であり、霊なのです。祈りは目に見えないのに風のように神様に届くのです。そして、その実現を、霊としての心が気付く筈です。
ただ単なる、目的のない形式的な祈りは慎み、神様に気に入られる祈りをすることを心掛けるべきでしょう。絵に描かれた餅のようではなく、実際に食べることのできる祈りにするべきです。
聖書は人が人として知らなければならないことが書かれ、知らなくてもいいことは書かれていないと考えられます。
私たちは知ろうと知るまいと、霊と祈りの世界に住んでいます。目に見える世界とそうでない二面性の中で私たちは生活しています。祈りはクリスチャンの日課です。朝に昼に夜に神様は私たちを守っていてくださっています。感謝、感謝、感謝です。
クリスチャンはすべてのものの起源を神様と信じています。自然科学はそうではなく、理屈の上に理屈を重ねて起源にしています。そして世の中はそれを漠然と信じるようです。
例えば、科学者が研究を重ねて物質を構成している最小粒子、素粒子に到達しましたが、その素粒子が何で存在するのかはわかっていません。
子供たちは実に素朴です。大人になるにつれてこの素朴さから遠ざかっていきますが、祈りは私たちを原点に立ち返らせます。
聖書の御言葉は祈りの心を持って読むと良いと思います。祈りは対話です。私たちを造り、心を造ってくださった神様への心からの感謝です。人は霊の心が充分開かれなければならないと思います。
私たちクリスチャンの祈りは必ず正しくされて、神様に聞いていただけます。祈りの信念を貫くことを決して忘れてはならないと思います。