2015年4月5日(日) 希望のための失望
おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。今朝、神の言葉をみなさんと御一緒に分かち合えますことを嬉しく思います。
お話しのタイトルが「希望のための失望」というように、気持ちの良い朝から失望という言葉を用いるのを少々恐縮しております。
希望をもつということは、何か根拠があって、希望をもちます。例えば、この人がいるから希望をもてる。また、この計画、この材料、この資金があるから、希望をもてる、という言い方をすると思います。
すると、その希望の根拠が、健全なものならよいでしょうが、実は危ないものだということが、うっかりするとありうるわけです。この材料があるから大丈夫といっても、実は不良品であれば危険ですし、この資金があるから大丈夫と言っても、実は預け先から手元に戻らないなら大変危険です。
その危ない根拠に希望をもってしまっても、手遅れにならないように、早い段階で「これはだめなんだ」と失望し手放すことが大切です。こうして健全な希望を持てるように、希望の持ち方を軌道修正するのではないでしょうか。
これを、私たちの人生におきかえてみるならば、その中で起こる失望は、暗い過去、悲しい過去で終わるものではなく、健全な希望を持つ持ち方へ軌道修正させる、神の働きです。
この失望と希望を経験する信仰者は全員と言ってよいのではないでしょうか。私が一人ご紹介したいのは、旧約聖書の創世記に出て来ますヤコブという男性で、まさに今述べた失望という試練を受けました。すべてを可能になさる神へ希望を持たせるために、ヤコブが神でないものに人生の希望を持った時には、神は決定的に失望を与え、彼は何度もがっかりしています。
ヤコブの人間性は、機転のよくきく性格でした。その性格自体は、神から与えられた素晴らしいものです。具体的に表われたのは、彼の親から相続を受ける時や、財産を増やす時、様々なところで機転を利かせました。彼の機転が通用しない大問題に対しても、自分の機転の良さに頼って臨み、大きく失望させられます。例えるなら、死ぬような重い病気に、ただ絆創膏をはって済まそうとしたわけです。これは危険です。彼は自分の機転の良さに自信をもち、一度ならず何度も神に頼らなかったということがあったのです。
神に頼らないヤコブに、神は失望を繰り返し与え、生涯続きましたが、彼はその度に、神への信仰を成長させられました。失望する度に、彼の生活は正しく軌道修正し、神の祝福が与えられました。単なる地上の希望ではなく、天の希望である神の祝福です。彼は家族と共に素晴らしい晩年を過ごしたのです。
新約聖書に、このようにあります。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(1ペトロ1:3b-4)
私たちが受けた失望は、本当の希望に生きるための軌道修正の時です。