2015年2月8日(日) 神はそこにおられる(詩編139:7-8)

「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」

 おはようございます。お変わりありませんか。聖書のことばは、私たちの道の光、私たちの足の灯火です。今朝も聖書の言葉に耳を傾けましょう。

 私たちは、先週から詩編139編の聖書の言葉を学んでいます。先週は「全知」、「神がすべてを知っておられる」ことの意味について考えました。今朝は、同じ詩編から、「神の遍在」、「神がどこでもそこにいてくださる」ことの意味について考えてみたいと思います。

 詩人は、「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」と告白しています。すべてを知っておられる神は、生きておられる神としてどこにもおられるというのです。天に昇ろうがそこにも神はおられる。陰府に身を横たえようと、そこにも神はおられる。陰府とは死んで身を横たえる世界です。そこにも、神はおられるというのです。

 これは、私たち日本人からすると、注目すべき言葉です。私たちには、死んでしまえばすべてが終わりという考えがいつもどこかにひそんでいます。ですから時には、死は最後の逃げ場にもなります。しかし、聖書は、陰府に身を横たえようと、そこにも神はおられるというのです。あるいは、東から西へ、北から南へ、地の果てまで逃れても神はそこにおられると聖書は語るのです。
 このことは、生ける神がどこでもいつでも、私たちの前に圧倒的に迫ってこられることを意味します。

 イスラエルの王ダビデは、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。そのダビデは、自分に迫る、この生ける神の御前に苦悩しました。詩編32編4節で「御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。」とダビデは告白しています。神が知っておられるだけではなく、その神がどこへ逃れていってもそこにおられる。
 この神の御前での同じ苦悩を、宗教改革者ルターも味わいました。神の御前に滅びるばかりの罪人であるという意識です。

 しかし、聖書は驚くべき「大転換」について語っています。ダビデは「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と同じ詩編32編で罪の赦しの幸いを告白しています。

 私たちは、新約聖書からイエス・キリストの十字架による罪の贖いを教えられています。どこへいっても圧倒的に迫り、私たちの罪を裁く神は、イエス・キリストの十字架のゆえに、イエス・キリストを信ずる者に罪の赦しを与えてくださいます。「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるのです。「あなたは今や雪のように白い」と宣言してくださるのです。
 ルターもまた、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ罪赦され、神の御前に立つことができるという福音の宝を発見したのでした。

 驚くべき「大転換」とは、いつでもどこにも神がおられることは、恐れと不安をもたらすのではなく、イエス・キリストにあって神の守りと導きを固く信じさせるものです。この大転換は、神が共におられることの喜びと勝利をもたらすものです。

 ですから、詩人は、同じ詩編の10節で、次のように告白しています。
「あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
 神が、いつもそこにいて下さることは、御手が、昼も夜もわたしの上に、重い苦しみを与えるのではありません。むしろ、大きな慰めであり、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえて下さるという、喜びに満ちた、確信の源になるのです。