2015年2月1日(日) 神は知っておられる(詩編139:1-2)
「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」
おはようございます。お変わりありませんか。今朝もご一緒に聖書の言葉に耳を傾けましょう。
今朝は詩編139編1節-2節から「神がすべてのことを知っておられること」の意味について考えたいと思います。この詩人は、神が私たちの座るのも立つのも知っておられる。歩くのも伏すのも知っておられる。私の思いも、わたしのすべてを極みまでご存じである、と告白しています。私たちは、ある程度は自分のことを知って欲しいし、理解して欲しいと願うものです。しかし同時に、誰しも他の人には知られたくないものがあります。自分の中に秘めておきたいこと、自分自身でさえ忘れたいと思うこともあるのです。そうだとしますと、神が私の立っているのも座っているのも、心の奥底まで、私のことをすべてご存じだというのは、本当は困ることになるのではないでしょうか。どこにも逃げ場がなくなるからです。
よく言われることですが、信仰など弱い人の逃げ場であり、自己逃避だと非難されます。しかし本当にそうでしょうか。この聖書の言葉が明らかにしているように、キリスト教信仰では、そうではありません。生きておられる人格的な神がすべてを知っておられるとは、どこにも逃げ場がないことを意味しているからです。
詩編56編9節で「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか」と語っています。「あなたの記録」、神が記しておられるノートがあるというのです。私たちの過去の歩みも、そして今の私の行いも思いもすべて、神のノートに記されるというのです。そのノートを消しゴムで消すことはできません。私たちが、罪を意識するのは、神がこのようにすべてを知っておられ、すべては神のノートに記されているという事実を知るときです。
しかし、注目したいのは、この詩人は神がすべてを知っておられると告白しつつ、神を讃美しているという事実です。神を讃美する?なぜでしょうか。それは、この詩人は神が恵み深いかたであることを知っているからです。恐ろしい神ではなく、恵み深い神が、私のことをすべて知っておられる。そうだとしますと、その神に知られていることは、恐れではなく、むしろ心からの平安をもたらすことになるのです。ですから、すべてを知っておられる神を讃美するのです。新約聖書は、この神こそイエス・キリストの父なる神であることを明らかにしています。
イエス・キリストは十字架にかかって私たちの罪を償ってくださいました。聖書が「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります(ヨハネの手紙一 4章10節)」と語る通りです。
イエス・キリストを信じるとき、すべてのことをご存じの神が、私たちの罪を赦し、神の子として受け入れてくださるのです。窮みまで私たちをご存じの神は、イエス・キリストにおいて極みまで私たちを愛してくださるのです。私たちの座るのも立つのも、歩くのも伏すのも、すべてを知っていてくださる神は、私たちを赦し、愛し、受け入れてくださるのです。このことは、私たちに心の奥底からの平安を与えるものです。
私たちは、他の人に理解されないことも、あるいは、不当な批判にさらされることも、また、どうしようもない苦悩の中におかれることもあります。しかし、この神の御前に座し、祈る時、神がすべてをご存じであることを思い、私たちの心は安らぐのです。
詩人は告白しました。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる」。この言葉は私たちを不安と戸惑いの中に導くものではありません。むしろ、私たちに心からの平安を与え、この神と共に歩む勇気を与える言葉なのです。