2015年1月11日(日) よくなりたいか
おはようございます。松山教会の久保浩文です。私が2014年4月より奉仕しています松山教会は、松山市の中心部にあり、近くには松山城や道後温泉があります。道後温泉は日本三大古湯の一つに挙げられています。夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも描かれており、松山市の代表的な観光地となっています。毎年、年末年始や大型連休になると、全国から大勢の観光客が、道後温泉界隈に押し寄せます。道後温泉本館入口前には、入湯の順番待ちをする人が、数百メートルにもわたって長蛇の列を作っている光景を目にします。毎朝6時の太鼓の合図と共に一番風呂に入ろうと待ち構えている人たちの中には、「一番風呂に入ると病気が治る」と信じている方もいます。
かつて、エルサレムの神殿の北側の「羊の門」の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。ベトザタとは「憐れみの家」という意味で、そこには、癒しを期待して集まってきた「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわって」いました。この池は間欠泉だったといわれていますが、池の水が動き始めた時に最初に水に入った人が癒されると信じられていたので、皆、その池の水が動くのを待ち構えていて、動くと、われ先に池の中に入ったようです。
そこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。長患いのために、家族からも、友人、知人からも見放され、心身ともに苦しみ、疲れ果てながらも、池のそばを去ることができなかったのでしょう。イエス・キリストは、彼に目をとめ、「良くなりたいか」と言われました。この一言は、聞きようによっては、皮肉にさえ聞こえます。何をいまさらそんなことを聞く必要があるでしょうか。人生の大半を闘病生活に費やしてきたのです。治りたいのは当然のことではないか、と。彼はイエスの問いかけに素直に答えることができませんでした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」これまで助けてくれる人もなく、孤独と絶望の中にあった彼は、人に対しても神に対しても信頼することができなくなっていました。
しかしイエスは、絶望的に見えるこの病人の心の中に、抱き続けてきたかすかな希望をご覧になり、声をかけてくださったのです。イエスは、この人の長年にわたる病気の痛みも辛さも、見捨てられ、裏切られてきた悲しい過去もすべてご存じでした。そのうえで、彼の傍らに立ち、「良くなりたいか」と聞かれたのです。このみ言葉によって「良くなりたい、治していただきたい」という思いと神を見上げる信仰を与えられたこの人に、イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。このイエスの言葉を聞いて従った病人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。イエス・キリストは、この人の肉体の病をいやされただけでなく、これまで抱えてきた心の中の罪、神への不信仰を払拭されました。改めて彼は、生きることの希望と喜びを与えられ、人生のすべてにおいて神がともにおられることを知ったのです。
悩みがあまりにも深いと、人は神を見上げることを忘れてしまいがちです。そんな時、イエスは傍らに立って、「良くなりたいか」と問いかけてくださいます。それは、新たな人生への第一歩なのです。