2014年11月9日(日) 極めて良かったはずなのに
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
全部で66巻からなる聖書の巻頭は『創世記』と呼ばれる書物です。そこには神が6日間にわたって、何もないところから、ただ神のことばによって天地万物を極めて良くお造りになったことが記されています。
これを聞いただけで、この書物がどれほど馬鹿らしいかと、そう思われるかもしれません。確かに、ここに書かれていることは、科学的な検証によるものではありません。ですから、それが科学的でないことは百も承知です。そうではなく、ここで聖書が教えようとしていることは、神からの啓示によって示される宗教的な真理です。
そんなことをいうと、ますます、聖書から足が遠のいてしまうかもしれません。しかし、ここは少し寛大な心で聖書の話に耳を傾けてください。
きょう、『創世記』の記事で特に目を留めたいのは、神が天地万物をお造りになるときに、一日一日、出来上がったものを神が「よしとされた」というくだりです。6日間の創造を終えられるときには、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と結ばれます。この世界は最初から神の御心にかなった素晴らしいものであったというのが聖書の教える真理です。
しかし、わたしたちが現実に見る世界は、必ずしも極めてよいとは思われない世界です。貧富の差があり、搾取や差別が横行し、暴力に満ちあふれ、戦争が絶えない世界です。それに加えて、毎年のように世界のどこかで人間の暮らしを襲う自然災害は、『創世記』の記事と現実とがあまりにもかけ離れているような印象を与えます。
そうだとすると、この世界は、極めて良かったはずのものが何者かによって破壊された世界なのでしょうか、それとも、ほんとうは最初から粗悪品の世界だったものが、人間のおかげで、これでも少しはまともになりつつある世界なのでしょうか。あるいはそのどちらでもなく、この世界はよくも悪くもなく、ただこの現実を受け入れるしかない世界なのでしょうか。
『創世記』は続けて、この世の悲惨さが何によってもたらされたのかを語ります。それは大地とその中にあるものの管理をゆだねられた人間の罪と堕落によるものだと、『創世記』は説明します。もっとも、こうした『創世記』の説明は誰もが納得できるものではありません。そもそも万物が極めて良いものであるならば、罪や堕落が起こること自体、あり得ないことだと指摘されるかもしれません。確かにその通りです。そういう意味で、聖書はすべての疑問に答えているわけではありません。ただ、天地万物の創造と人間の堕落の話は、それ自体が希望を含んでいるということです。
もともと粗悪品の世界が、何千年にもわたる人間の知恵と努力でもってしても、この程度にしかよくならないのだとしたら、あと何千年たっても大きく変わる希望はありません。加えて、人間の進歩は問題を解決する半面で、新たな問題をも生み出しているのですから、人類の進歩は問題の解決を保証するものではないのです。
しかし、極めて良いものをお造りになることができるお方がおられ、しかも、今目の当たりにしている悲惨さには、はっきりとした原因があるのであれば、その解決の道は、創造者であられる神ご自身が誰よりもよく御存じで、しかも、解決できる力をお持ちになっているということです。創世記の記事は、現在の悲惨な世の中を、ただ単に過去にさかのぼって説明しているのではありません。この世界には本来のあるべき姿があり、そこへと向かう希望があることを教えているのです。