2014年11月2日(日) 造り主を知る
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書の一番最初の書物は『創世記』と呼ばれています。「創世」とは、初めて世界をつくること、という意味です。この書物の初めには、天地万物がどのようにしてできたのかが記されているので、そう呼ばれています。
もっとも、『創世記』が扱っているのは、天地万物の始まりのことだけではありません。世界の始まりについて書かれているのは、この書物の冒頭部分だけで、残りのほとんどを占めるのは、イスラエル民族の祖となる族長たちの話です。
人間の素朴な疑問として、世界の始まりに興味を覚えるのは、だれでもそうだと思います。しかし、世界の起源を知るためにだけ創世記を読むのだとしたら、それはずいぶん的外れでもったいない読み方のように思います。
私なりの理解では、この書物は世界の始まりについて教えるためでもなければ、単にイスラエル民族の起源を教えるために書かれたのでもありません。むしろ、この書物を通して学ぶべきことは、神と人間との関係、それに基づく人間と人間との関係であるように思います。
ほとんどの人にとっては、そんなことはどうでもいいことのように思われるかも知れません。そもそも神など、いるのかいないのかわからないような存在なのに、そのわけのわからない存在と人間との関係を学んだところで、何の意味があるのかわからない、と思われるでしょう。
しかし、そうした思いをちょっと脇へ置いておいて、『創世記』を味わってみてください。きっと人生観が変わるはずです。
その『創世記』の出だしですが、「初めに、神は天地を創造された」とはじまります。聖書では、神は最初から万物の創造主として登場します。神によって造られた被造物と、お造りになった創造者であられる神とは、最初から明確な違いを持ったものとして紹介されます。『創世記』によれば、人間もまた造られたものにすぎません。
「すぎない」というと、あまりいい感じがしません。しかし、神に対しては、どんなに頑張ってみても人間は「造られたもの」にすぎません。それはどんなに権力を手に入れ、意のままに世の中を動かせるような人でもそうなのです。創造主である神への畏れがあるところに、真の謙遜が生まれます。また、他者が自分と同じように神によって造られた存在であることを知るところに、他者を敬う思いが生まれるのです。神の御前にみな平等という発想が出てくるのも、この創造主である神を知るところから始まります。
「神によって造られた」という表現自体も、ほとんどの人にとっては非科学的で幼稚な表現と思われがちです。しかし、言い換えれば、すべての人間には神から与えられた存在の意味と目的とがあるということなのです。人間は、何かのはずみで偶然に生まれ、あってもなくてもいいような存在では決してありません。
『創世記』を学ぶ大切さは、そうした人間としての在り方に大きな影響を持っているからです。造り主である神を知ることは、まわりまわって人間を大切に扱うことにつながります。そのことは、決して小さなことではありません。神との正しい関係を知るときに、人との関係も整えられていくからです。