2014年8月24日(日) おせっかいの勧め

 みなさんお元気ですか。わたしは高知県下でただ一つのミッションスクール清和女子中高等学校で校長をしています黒田 朔です。毎朝チャペルで「若い時に聖書を信じる人生を選んでごらん。70歳越えてもうれしい人生生きることが出来るから…」と話します。そこで、今日もみなさんにどうすれば70歳を超えて、なお、人生楽しみ、喜べるか、そのお話をしたいと思います。今日の題は「おせっかいの勧め」です。

 インドの貧しさの中で死に行く人々のために生涯を捧げたマザー・テレサが言いました。「世界中の多くの国々で人々は飢えています。それは単に、パンがない飢え、裸に着せる着物がない貧しさ、住む家がない家無しではありません。金持ちであっても、愛され、気にかけられ、必要とされ、心からあなたと呼べる人に飢えているのです。」
 みなさん、これは今の日本、わたし達の日常の問題です。孤独死を考えてみてください。誰にも看取られず一人で死を迎えた65歳以上の人が何人ぐらいいると思いますか。2012年、日本全国でなんと15,603人の人が、一日にすると43人の人が孤独死を迎えました。まさか!と思いますね。「孤独死のニュース」を見ると一人暮らしの人は次は自分か…と思うというのです。経済規模世界第3位と豊かさを誇り、総理大臣が訪問する多くの国々に経済援助を約束して回る日本の現実です。

 何だか話が重苦しくなってしまいましたが、昔は夢であった長寿が何時からか高齢化と言われるようになり、後期高齢者と呼ばれて、社会のお荷物のようになってしまいましたが、それでも長寿は今も誰もが願っている夢である、ということには変わりありません。経済的な保障や高齢者医療の充実、そういったことは政治や行政にお願いしなければなりませんが、長寿が魅力的で、若者の憧れとなるようなモデル作りをする、いいえ、わたし達がモデルになる…というのはいかがでしょうか。若者が憧れる魅力的な長寿のモデル作り、これは高齢者でなければ出来ない、すばらしい高齢者向けのチャレンジだと思います。わたし達のテーマとして「魅力いっぱいの、上手な年の取り方」そのモデル作りをしたいと思うのです。

 そのために二つの提案があります。第一の提案は「面倒くさい」と言わないこと。第二は「おせっかいをしましょう。」といことです。でも現実はつい「面倒くさい」とこう言ってしまいます。口には出さないかもしれませんが、気持ちの中ですでに「面倒くさい」とこう思ってしまうんです。102歳の現役ドクターの日野原先生のアドバイスは「上手に年を取るためには新しいことを始めなさい。」ということでした。わたしがハワイで出会った勝山スイさんは106歳で「ありがたい、ありがたい…」と喜びながら、感謝の人生を完成させて、天国へと帰られました。でも彼女は99歳で「わたしも洗礼を受けます。」と言ってこられたんです。日野原先生と勝山さんを前にしては、もう年だとか、面倒くさい…というのは言えませんね。
 次に、「おせっかいをしましょう。」です。もちろん程度にもよりますけれど、相手のことを考えすぎて、親切を控えるということがありますね。してあげたらよいと思うけど、迷惑と違うかな…と思ってしまうんです。マザー・テレサは言いました。「愛の反対は憎しみではないのです。無関心です。」つまり、孤独死の原因は周りの無関心にあるというのです。数年前のことです。ある団地で78歳と49歳の母娘、お母さんと娘が死後2年近く経ってミイラ化して発見され、助けを求めてきた47歳の 次女も、「二月の間なにも食べていなかった」というのです。まるでうそのようですが、わたし達の身近でも起こる話です。おせっかいをしましょう。毎日の挨拶を交わし、時には隣の家のドアを叩いて作りすぎたおかずを届けてみたらどうでしょうか。そのうち、お昼を一緒に食べる友達になれるかもしれません。どれほど日本が経済大国であっても、どのように生きるかはわたし達が決めることです。若者の憧れとなるような長寿のモデルになりましょう。面倒くさがらずに、おせっかいを楽しんでみましょう。
 キリストはおっしゃいました。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」ルカによる福音書6章31節です。(新改訳聖書)
 それではまた来週、「キリストへの時間」お聴きください。ごきげんよう、さようなら。